私立十字学園。そのレトロな外見に比例するように校舎の中や教室も一風変わった風を 呈している、近年では稀な学校である。ここはその高等部、三階の廊下だ。今年はどうい うわけか知らないがやたらと暖冬で、今日も心地よく少しだけ寒い風が外の梢を揺らして いる。季節がもうすぐ変わろうとしている――三月三日の朝がやってきていた。 「ねーねー、そういえば今日は」 「なによ、ひな祭りとか言わないでよね。それか耳の日?」 「何いってんの、違うよ! あのね、百目鬼君の誕生日なの」 「はあ、そういうことね。あんた一体あんな仏頂面のどこが良いのよ」  良くぞ言った!  歩いてくる二人組の女の子が話す何とも可愛らしい会話を、余すところなく聞いていた 黒髪のどことなく細身な青年は、向かって右側を行くショートカットが似合う少女に心の 中で激しく賛同した。それはもう手元に鞄とプリントがあることすら忘れてガッツポーズ をしかねないくらいに賛同した。実際危ないところだったのは本人のみの秘密である。  尋ねられた、肩口より下に伸ばしたストレートが印象的な女の子は、少し困ったように 口元に手をやる。 「えー、どこって、なんかこう……ストイックなところ? あと、無口だけど別に喋らな いわけじゃないし、」  だからそれのどこが良いんだよ? 「それとね、弓道やってる時の弓引いて構えたところがかっこいいんだ。的しか見てない んだけどね、なんかこっちまで緊張するような感じなの。そうだな、――綺麗、かな」  うん、それは判らないでもないかも。でなきゃ、わざわざこの四月一日君尋さまが奴に 弁当持って行ったりしないし。確かに、いつだったか怪我させた時も、その所為で優勝で きなかったりしたら流石に責任感じたけど、んなこともなかったし。っていうか百目鬼の ヤロウ強すぎねぇか? ……いやいや、練習してるのは知ってるよ。知ってるけど、なん っか癪に障るよなー、あーくそ! あの鉄面皮め! 「あと、ちょっと判りにくいけど優しいよ?」 「どこがー? 冷たいイメージしかないな、私」 「そんなことないってー」  女の子達と、その青年――四月一日君尋はようやくすれ違った。わりと広く設計された 廊下なので体を傾けなくても簡単に通ることができる。数歩歩いて、無意識に四月一日は 振り返っていた。ショートカットの子もストレートの子も、楽しそうに笑っているのに。 「……相変わらずモテるんだな、あいつ」  みぞおちの拳一つ分ほど上のところに、ぢりっと何かが走ったような気がした。しかし 、彼はそんな痛みなど認めないようにしている。いや、既に認めなければ――認めざるを 得ないところまで来ているのも判っていて、それでも意地を張っているだけなのだが。 「ああ、それから」  あいつ、今日生まれたんだ。  四月一日の見遣った窓の向こうには、優しい春の日差しが降り注いでいた。三月三日、 桃の節句。今朝、満開の梅は見たけれど、桃はどうなのだろうか。  まったく、そんな女の子ナイズされた日に生まれただなんて。 「これでからかうネタが一つ増えたな!」  ふふふ、と不敵に微笑んだ彼の目が、自分の想像以上に優しかったことなど誰も知らな い。     「四月一日、浮かない顔ね。何があったの?」 「侑子さん……」  時は移ろい、時刻は夕方、夜の帳の下りる前である。夕日が沈む前の最後の足掻きとば かりにきついオレンジを辺りに振りまきながら、ゆっくりビルの陰に隠れるのを見るのが 好きだ。 「それがですね、今日ひまわりちゃん休みだったんですよー! 折角今日のお弁当はひな 祭りにちなんでちらし寿司だったのに!」 「桃の節句だしね。それなら、百目鬼君とお昼だったの?」 「いや、あいつも昼練でこれなくて。お陰でおれ一人で食うの大変でした」 「あっそう。――それなら、もちろん女の子な私にもお寿司よね!」 「もとからそのつもりですよ。つか、誰が女の子っすか」 「なに、何か言った? 四月一日」 「い、いえいえ何も……」  ちろり、と爬虫類を思わせる目で見つめられて、四月一日は知らずに数歩あとずさった 。手に持ったままだった割烹着を手早く身につけて、とりあえず台所へ向かおうと足を向 けた途端、後ろから声が掛かる。 「ねぇ四月一日、今日のデザートは何?」  心なしか声のトーンが下がって、先程までの高いテンションはなりを潜めている。 「え、今日は一応ひな祭りにちなんで桃の練りきりとかどうかなー、と思ってるんですけ ど……」 「そう? あのね、ケーキ食べたいのよ」 「ケーキ……っすか? 何かの記念日とか? 早く言ってくれれば良いのに」  あはは、とにっこり笑って侑子の妖艶な唇は音を紡ぐ。 「いいから。マルとモロからのお願いでもあるのよ」  その可愛らしい容姿の二人を出されては、益々断れなくなる。一人っ子の四月一日にと って、彼女たちは妹のように可愛い存在だった。苦笑しつつも溜め息をついて、後ろ手に 割烹着のひもを綺麗に結ぶ。 「判りました。材料ないんで、ショートケーキでいいっすかね」  ふすまの向こうに消えてぱたぱたと去っていく足音を、侑子の視線はまるで見えている かのように追って、その右手に持った煙管から細く煙を吐き出した。いつのまにか傍に来 ていたモコナが、くすくすと短い手を口に当てて堪え笑いをしている。彼女も、一緒にな って口元の笑みを更に濃くした。 「侑子」 「なに?」 「また遊んでるな」 「あら、良いじゃない。アノ二人で遊ぶのは楽しいのよ。特に四月一日のほうね」  ちょこんと侑子の膝によじ乗ったかと思うと、モコナは楽しそうに跳ねてはくるくると 回りながら落ちる。そしてまた跳ねる。トランポリンのようにぽんぽんと宙に舞いながら 、モコナは、 「楽しそうだな、侑子」  と囁くように言う。 「そうね、楽しいわ」  侑子も小さく返した。黒いふわふわがまだ跳ねているのを視界の端にとどめながら、侑 子は一人ふすまの更に向こうにある台所の方を向いて微笑んだ。  ――何かの記念日とか? 「それはアナタが知ってるはずよ、四月一日」 「――え?」 「だから、そのケーキ」 「いや、ケーキは判りますよ。俺が焼いたんですから。そうじゃなくて、その後です後!  マルとモロのためだって言ったのは侑子さんでしょ?」  だって、と顎の下でその細い陶磁器のような指を組み合わせて、少しだけすねたような 顔を作る。まだ八時にもなっていないのだが、あらかた寿司は平らげられて、彼女は既に 一升瓶を三分の一は一人で空けている。ちなみにその残りの三分の一は、正体不明のくろ まんじゅう、モコナがそしらぬ顔で呑んでいた。しかし、ちらし寿司と一緒に飲んでいた 日本酒のにおいが全くしない顔で、そんな酔ったようなことを言われても。 「マルとモロったら寝ちゃったんだもの。もったいないから、四月一日が好きなようにし なさい、って言ったのよ」  違う、これは全く酔ってなんかいない。なんというか、全てを見透かしたような瞳の中 に面白がっている風がある。近頃、長く付き合ってきた所為かこの人の目にも色々種類が あるんだな、と四月一日は気付いていた。その分析からいくと、今の目には相当面白い、 と書かれているのだ。  もちろん、今日の始まりに女の子たちが騒いでいたのを忘れる訳なんかない。「あのね 、百目鬼君の誕生日なの」といった女の子の楽しくて嬉しそうな顔は、今でもはっきり思 い出せる。昼休みにからかってやろうと思っていたけれど、一向にいつもの階段のところ には現れない。業を煮やして、どうして自分が行かなくてはならないんだ、ぶつぶつと百 目鬼のクラスを覗けば「なんか今日は昼練があるとかで今居ない」という返事が返ってき た。そのとき、自分の心の中に溢れ出した感情に、どうしても名前をつけるとしたら―― 悲しかった。そう思ってしまう自分が悔しくて仕方なかったけれど、それと同じくらい悲 しかった。  折角の誕生日なのに。素直に言えるかどうかは別にして、おめでとうの一言も言えない なんて。 「どうしたの、四月一日? もう今日はバイト、上がりで構わないわよ」  お猪口片手に、侑子お得意の機嫌の良さそうな笑みを満開に咲かせて、――ああもう仕 方ない。 「……判りました。だったら、今日は失礼しますね」  割烹着の衣擦れの音と共に遠くなっていく四月一日の気配を感じ取りながら、侑子はく いっとお猪口の中を空にした。 「このお酒美味しいわねー。また買ってきてもらいましょう」 「侑子。――四月一日は行くな」 「行くわね」  にっ、と笑った二人は、お互いのお猪口にまた冷酒を注ぎ合う。いつのまにか冬は終わ って、出されるお酒も気温に合わせていつしか熱燗から冷酒へと変わっていた。そんな気 使いを見せるバイトを思って、侑子は更に楽しそうに笑う。  その男は、縁側で、着流しをさらっと着た上に緩く羽織をひっかけたまま。 「何だ」  いきなり目の前いっぱいに広がった、深い赤紫の風呂敷を見つめていた。 「やるよ。べ、別にお前が誕生日だからとかじゃないからな!」 「何だコレは」 「ケーキだ!」 「俺にか?」 「違ーう! 勘違いするなよ、ひまわりちゃんが食べたいって言ったから作ったまでだ」 「九軒は今日休みだったろ」 「……だからお前にくれてやるんだ。俺は全然めでたいなんて思ってないからな!」  オーバーリアクションでひまわりのことを嘆いて見せつつも、差し出された風呂敷包み は一向に引っ込められる気配はない。無言のまま百目鬼は包みを受け取ると、そのまま縁 側に腰掛けてするりとその柔らかい布地を取り払った。なかからは、箱の中にふんわりと 収まった、定番だがそれゆえ上手く出来ていると人目を引く、苺のショートケーキが収ま っていた。食べやすいようにという配慮からか、既に三角に切り分けられていたので、一 切れをおもむろに口に運ぶ。ご丁寧に、下にはアルミホイルが敷かれているので手を汚す 心配もない。 「……おい」 「俺の名前は“おい”じゃねえ」 「次はチョコにしろ」 「命令すんな! っていうか次なんて絶対無いからな!」 「あら、言い切れるのかしら?」  寺の縁側に、いつの間にやらもう一人――いや、一人と一匹が腰掛けていた。 「ゆ、侑子さん!?」  ずさあ、と音のしそうなほど四月一日は後ずさって、戦闘体勢とばかりに両手で体をガ ードした。百目鬼はといえば、動じることもなく、まだ残っていたケーキを頬張り続けて いる。 「どう、百目鬼君。四月一日がアナタのために一生懸命作ったケーキは?」 「え、な、違うでしょう侑子さん、俺はマルとモロが、って言うから――」 「あらそう? でもこのケーキは好きにしなさいって言ったのに、アナタは百目鬼君のと ころに持ってきたのよね?」  そういうことなのよ、と彼女は百目鬼に向けて微笑んだ。 「いやいや、だからそれはその、」 「いいじゃない。今日はお誕生日会よ! ちゃんとお寿司とお酒も持ってきたわー」  グラスに五杯ほどの日本酒を体に流し込む。ぽつりと天邪鬼な彼が呟いた「誕生日おめ でとう」に、百目鬼が珍しく笑う。四月一日は酔いの回った気持ちのいい体で、理性が外 れた音を、どこか遠くに聞いたのだった。