※ 11'07,08 の続きとなります。  ざぁざぁと耳元で雨が大騒ぎをしている。  先程降り始めたとは思えないほどの勢いで校庭の色を真っ黒に染め上げていく。  念のため自己申告して行った水飲み場へ足を運んでみたけれど、当然のようにシゲの 姿はなかった。当たり前だけれど、忘れたと言っていたタオルもない。まぁ、こちらは 嘘だと最初から分かっていたのだが。  他の人なら、嘘をついてまであの状況から逃げたあいつの心境を笑うかもしれないけ れど、水野には笑うつもりも責めるつもりもなかった。あそこで、そのまま皆の言葉と 気持ちを受け取ってしまったら、あの男がどうなってしまうかくらい、容易に想像が付 く。  雨に濡れて、鈍い色を放っているだろう金髪が、どこにも見当たらない。  でも、水野には確信があった。今、シゲの精神状態なら、どこか屋根のあるところに は行かない。だから、自分も傘を持たずに飛び出して来た。  ついさっきまで運動していた体が急速にその温度を失っていくのが分かる。普段なら ば、こんなこと絶対にしないのに。  雨の一粒一粒が皮膚の表面を滑り落ちていく感覚が酷く煩わしかった。もうすぐ夏が 来るとはいえ、やはり雨はまだ冷たい。  校庭や校舎沿いをうろうろと歩き回る。爪先の感覚はふやけてしまって既に無く、履 き替える暇もなかったスパイクの中が水で満たされていく。 「……、」  ふ、と雨の降りしきる音が途切れた気がした。気のせいだと言われたらそれまでの感 覚だった。  けれど、水野は躊躇うことなく振り返る。誰も居なかった。かに見えた。 「……シゲ、」  なんのことはない、百葉箱の足元にしゃがみ込んでいただけだった。上手く垣根と紫 陽花の間に紛れ込んでいる。  ああ、きっとこの場所も今見つけたものではないのだろう。ずっと前から、もしかし たらこの桜上水に通うことになったときから、シゲの場所だったに違いない。  だって、ちょうどよくその姿が隠れている。膝の間に埋めた頭は微動だにしない。 「風邪引くぞ、シゲ」 「……放っといてくれへん、のやな」  雨の音に隠れて、酷く潰れた声がした。声帯がもうこれ以上広がらないのだと言わん ばかりの、擦り切れた声だった。馬鹿だな、擦り切れているのは声ではないだろうに。 「去年までなら、……この春までなら、放っておいたかもしれないけど」  ゆっくり膝を折り曲げる。ぴくりとも動かないシゲと同じ格好になる。碌にクールダ ウンしていないふくらはぎが痛いと文句を言ってきたけれど、今だけは無視した。ごめ ん、無視させて欲しい。どうかどうか、今だけは。 「もう、放っておかない。シゲ、お前はもう誰からも諦めてもらえなくなったんだ」 「……勘弁せぇよ……、」 「馬鹿言ってんなよ、風祭と戦うって決めたときからこうなることは分かり切ってただ ろ」  幼い子供が駄々を捏ねるように、ぐりぐりと膝へ額を擦りつける。巻き込まれた金髪 の一筋が、雨を吸って酷く重そうだった。 「シゲ、」  向かい合わせに膝を抱えてしゃがみ込んでいる中学三年男子が二人。 「お前は今まで、……京都でも寺でも学校でも、必要以上に他人に踏み込ませないよう 振る舞ってきたつもりだろうし、実際それは上手くいってたんだと思うけど、」  水滴がずっと首筋を這っている。止む気配のない雨に打たれ続けて、まるで海の底へ 沈んでいくかのようだった。たった二人きりの、冷たい世界へ。 「風祭や、……俺とかに、お前から関わったんだから。そうしたら、今度は周りが自分 に関わってくるようになるんだよ」  自分からのベクトルを発すると、相手からも返ってくる。そんな当たり前のことを、 かわして避けて通ってきた。  だから、十六歳の誕生日が、こんなにも苦しい。  だから、あの場で直接言葉を受け取ることが出来なかった。  自分から無責任に関わっていくばかりで、相手が自分へ踏み込むことをよしとしなか った、そのツケがこんなところにまで回ってくるのだと、京都を逃げ出した頃のこいつ には想像もしていなかっただろうけれど。 「……受け取ってみればいいだろ。その後のことはその時に考えればいい」 「そないな真似できるほど、器用に出来とらん」 「知ってる」  ようやくまともに受け答えが成り立った。  片頬を膝頭に乗せて、水を含んで光すら吸い取ってしまうような金色へ左手を伸ばし てみる。一度、先程と同じように嫌がる素振りを見せたけれど、止めてやるつもりはな い。嫌がっても、上手くかわそうとしても、もう放っておいてはもらえないのだ。  そんな世界へ、シゲはきちんと自分からやってきた。去年一年を掛けて、己の全てを 賭けて。 「……やめぇや、」 「嫌だ」  だから、迎え入れる。  もう、いつまでも逃げては居られない。他人からの接触に、干渉に、逃げてばかりは いられない。  賢いコイツは、分かっていたはずだ。人との関わり方をこの春から変えたシゲには、 まだまだキツイかもしれないけれど。  こうやって、人から祝われることに、頼むから。 「少しずつでいいよ。少しずつ、」 「……、」 「噂話とか、妬み嫉みとか恨み辛みとか、今まで嫌な気持ちばっかり向けられてきたと しても、……それ以外の気持ちも向けられるような人間に、お前が自分で成ったんだか ら」  春先、シゲから全ての気持ちをぶつけられたときのことを思い出す。水野はその一週 間後に答えを返した。その水野の気持ちすら、シゲは未だ上手く自分へ向けられている ものとして受け止めきれていなかったのかもしれない。 「他人がお前に向けてる気持ちとか、受け取っていけよ。それで、……そういうのに、 慣れていって欲しい」  気持ちを向ける、というそれだけのことが、どれほどの価値のあるものか。シゲは、 それを知りすぎている。  だから、いざ自分がそうされる側に立ったこの状況が、上手く処理できない。 「……慣れる?」  雨の降り始めのような唐突さで、シゲが顔を上げた。するりと伸ばしていた左手をそ の頬へ当てる。驚くほど温度のない頬の上を、生温い体温の水が這っていた。触らない と、分からないこともある。  一瞬しまったとばかりに眉を寄せたけれど、それきりシゲは水野のしたいようにさせ ることにしたらしい。抵抗らしい抵抗は無かった。 「うん。悪い感情も善い感情も、遣り取りしながら生きるってことに、慣れて欲しい」  一方通行ではなく、遣り取りをする。  シゲがこの桜上水中学サッカー部へ放り投げてきた、たくさんの挨拶や貢献や部員た ち一人一人に掛けた言葉たちが、今日シゲへ誕生日祝いという形で戻ってきた。  そうやって、この世は回っている。巡り巡って、自分へ届く。 「だから、あいつらに、「ありがとう」って言ってやればいいんだよ。嬉しいって言え ばいい」 「アホ、嬉しいわけあるかい。こんだけ心ん中引っ掻き回されて、」 「だったらどうしてこんなとこに居るんだよ」  小さく笑ってやると、シゲは憮然とした表情を作った。背後にある紫陽花の青紫が視 界の端を埋める。 「……苦しゅうて敵わん。これが嬉しいなんて感情なわけあらへん」  水野の目にひたりと視線を合わせたまま、シゲは呑み込むように声を絞り出した。そ の目に、声に、嘘は無い。  水野は息を吸うと同時に理解する。まだ、そんな風に掛け値なしの感情を向けられる のは、シゲにとっては辛いとしか感じられないのかもしれない。どうして祝われると苦 しいのか、どうして辛いのか、それを心が気付いていない。  どうしようもない。一つ年上のくせに、下手をすると自分より人間との関わり方が拙 いのではないか。水野ですら、とても円滑に人間関係を構築できているとは言い難いの に、それ以上とは。 「なら、祝われたくなかったか? あいつらに「おめでとう」って言われない方が良か ったか?」 「そんなん、……、」  こんな辛い思いをするくらいなら言われない方が良かった、などと言うかもしれない と覚悟していたが、言い淀んだところを見ると、祝われたこと自体は良いことだったら しい。良かった。  水野は溜め息を吐くと、じり、とシゲへにじり寄った。 「うん、分かった。きっと来年祝われたときには、もっと上手く受け取れるようになっ てるよ」 「俺は受け取っとらん、」 「馬鹿、ちゃんと受け取ったから苦しいんだろ」  部室で弾けるように飛び交ったおめでとうの言葉たち。部員たち一人一人の笑顔。そ んな幸せな光景が、いつか自分に向けられているのだと理解できる日がきっと来る。 「……来年、タツボンは居らんのにな」 「ん。もう、こうやって追い掛けてはやれない」  でも、きっと進学した先の高校でも祝ってくれるだろう。シゲが、その高校の人へ気 持ちを傾けたなら、きっと。  そのときには、こんな風に逃げ出さずに、笑ってお礼を言えるようになっている。あ と半年以上、この桜上水で過ごすのだから。 「大丈夫だろ、」  少年から青年へと成長していく過程の目尻をちろりと舐めてみた。雨に紛れず残って いた涙が、塩辛い。  大丈夫。今までがおかしかっただけだ。本気を出しても大丈夫だとあの試合で風祭が 教えてくれたのだから、人間関係だってきっとこれから幾らでも新しいものにしていけ る。 「……おおきに、タツボン」  するりと離れていく雨を滴らせる茶髪を鷲掴みにすると、そのまだ塩辛いだろう唇を 舐めとった。 「そうだ、練習してみるか?」  キスされたことにわざと言及しないで、水野は笑いの含まれた目をシゲへ向ける。 「誕生日おめでとう、シゲ」 「おおき、……あ……ありが、とう」  律義に関東の言葉へ合わせる、そんなシゲを誰が嫌うというのだろう。  シゲを取り囲んでいた環境や境遇には憤りしか覚えないけれど、恐らくそれだけでは ない。シゲ自身が自分のために作った壁が、きっとまだまだ幾つもある。  そのうち、その全てが笑い話になるまで、ずっとずっと一緒に居よう。  息の音が聞こえるほど近くにある目の前のシゲの顔が、不意にくしゃりと潰れた。  ハイソックスが泥に塗れるのも構わず、膝を付いてその頭ごと抱きかかえる。  三十六度の人間の体温が、ずぶ濡れの服越しにじわりと沁みた。 「にしても、タツボンいつの間にあないなこと考えられるようになったん?」 「あー、……実は、半分以上は母さんの受け売りなんだよな……」 「ああ、言いそうやな、真理子ちゃんなら」 「別に庇うわけじゃないけど、お前の比じゃないほど泣いたからな。シゲも母さんに言 われてみればいいんだよ」 「ええー……、アカンわ、今真理子ちゃんに優しゅうされたらアカンようになってまう」 「いっそ、今日はそういう日ってことにするか? どうせお前その格好で寺に帰ったら 和尚に質問攻めにされるぞ」 「ああ……あのオッサンもなぁ、ことあるごとに俺をせっついて来はるんよな……。こ ういうテンションのときには会いたないかも」 「心配なんだろ。うん、決まりな。今日は俺んちに泊まりってことで」 「……ま、もう春からタツボンにはだいぶ醜態晒したもんな。ええわ、お世話んなりま しょ」 「今日は部員にも醜態見せたしな」 「ちょぉ待ち、俺ちゃんと誤魔化したやん」 「誤魔化してるってのがもうダメだろ。動揺したのを悟られないように適当に往なせて れば良かったんだろうけど」 「……あー、」 「いいんだよ、それでも。人間なんて醜態晒しながら生きてるようなもんだって」 「……それは誰に言われたん?」 「……椎名。Jビレッジで言われた」 「ああ、姫ぃさんなら言うやろなぁ……」  後編 完!  来年は、番外編(水野宅)でしょうか。