夏至を過ぎて、暑さがどんどん加速していく。  小島が丁寧に撒いてくれた水はグラウンドのどこにもその面影を残すことは叶わず、 消え失せてしまった。あんなにも首筋を焼いていた太陽は、ゆっくりと街のでこぼこと した稜線に呑まれていく。  そのくせ、じっとりと体に纏わりつく湿気は一向に離れる様子もない。少し西の空が 灰色に覆われていて、けれど桜上水中学サッカー部員の総意としてはいっそこのまま夕 立でもなんでも降って欲しかった。 「よし、じゃあ今日の練習はここまで!」 「「「あっしたー!!」」」  ようやくか、の叫びとも、頑張ったな自分、の叫びとも取れる声がグラウンドの底を 這っていった。号令を掛けた良く通る声の持ち主は、タオルを取りに行く間すら煩わし いとばかりに肩口で頬を拭う。茶の前髪が酷く鬱陶しかった。  地区予選がついこの間行われ、次に待ち受ける都大会までのインターバルであるこの 時期、どんなに暑かろうとも練習に手を抜くわけにはいかなかった。まして、都心に近 いここは光化学スモッグの注意報が出れば満足に練習もできなくなるため、使える時間 は最大限に利用する心持である。  しかし、そんな気の抜けない期間だというのに、今日の練習は五分早く切り上げられ ていた。  この日、水野はもう一つ重要な案件を抱えていた。 「水野、」  小島がスポーツドリンクを差し出してくる。先程まで声を張り上げてボールを追って いたのに、もう礼すら発する気力が無かった。  中学三年になって、彼女も留学するための準備があるため、この頃は必ずしも顔を出 しているわけではない。が、今日だけはと万障繰り合わせてやってきた。そもそも、も うマネージャーではなく女子部の部長という立場なのだから、このようなことをする必 要もないのだが。  は、とようやく満たされた口から満足気な溜め息が零れる。 「サンキュ、干からびるとこだった」 「何言ってるの、アンタがこれしきの練習でへばるわけないじゃない」  からからと笑ってみせる彼女は、本当に以前と変わったと思う。けれど、春先のあの 一件からは全く変わっていなくて、それがまた眩しかった。  小島はそんな水野の心中をわざと測らずに、手に持ったスポーツドリンクのボトルを ゆらゆらと振る。 「んじゃ、手はず通りに私は足止めに行ってくる」  もう半年後には出ていかなければならない教室で、彼女と何度も打ち合わせた。  サッカーの戦術を考えている時と同じように、合理化とシミュレーション、そして何 よりみんなの気持ちを擦り合わせる、そんな優しい打ち合わせを。  きっと、あの小さな背で一生懸命ボールを追っていた彼も、この場に居たら加わって いただろう。そんな気持ちも一緒に持っていけたらいい。 「ああ、頼むな」  ゆっくり一つだけ頷いて、水野はその言葉を口にした。 「……なんか、」  ふいに、彼女は上目遣いになって、普段見せている快活な面とは別の顔で笑う。 「水野がそんなこと言うと、別の意味に聞こえる」 「なッ、」  思わず口に含んだスポーツドリンクを吹き出しそうになって、かろうじてそれだけは 防いだけれど。 「あっはは、そんな風に慌てるの止めてよ。冗談なのに」  もう一度彼女の顔を見上げるのには、少しだけ勇気が要った。彼女の笑い飛ばす声が 降ってきて、それに少しだけ後押しされる。  ようやく目を合わせてくれた水野に向かって、小島は呟くように囁いた。 「でもさ、本当に今日の出来はそういう意味でアンタに掛かってるんだからね。忘れな いで」 「……ああ」  そう返事した水野の目が、きちんとこちらの意図を汲み取ったものだと判断できたか ら。  小島はくるりと振り返ると、グラウンドの端にある水道で頭から水を被っている、当 代きっての天才へと足を向けた。  ああ、生き返る。  京都の盆地もそれはまぁ夏場は酷いものだが、正直に言って関東だってだだっ広い平 野なのだから別の意味で風は吹かないし空気は溜まるしで蒸し暑いことこの上ない。  自らわざわざ暑いサッカーなんてスポーツに手を出しておきながらこんなことを考え るのもアレだけれど、はーぁ、まったく日本の夏に楽園は無いものか。  そんなことまで考え始めた成樹の背中に、殊更ひんやりとしたものが当たった。 「うっわ!」  その冷たさに思わず仰け反ると、その反応をこそ待っていたとばかりに笑う小島の姿 があった。 「お疲れ、シゲ」 「小島ちゃんー……、もう、驚かさんといてや」  背中に当たったものの正体であるスポーツドリンクを受け取りつつ苦笑を漏らせば、 彼女は受けて立つとばかりに笑い返した。 「目の前にあんな無防備な背中があったら、なにかイタズラしないわけにはいかないわ よね」 「……ま、せやな」 「でしょ?」  口の片側だけを持ち上げて、成樹はにやりと笑ってみせる。呼応するように先程より ももっと楽しそうな笑みを浮かべた小島をみているだけで、今日の疲れも溶けていくよ うな気がした。 「都大会まであと二週間ほどよね」  小島自身もきゅ、と水道の蛇口を捻りながら、ふと思い出したように呟く。 「あー……、まぁ今年の都大は俺らのモンやな」  要るか? と差し出したペットボトルは、小島の無言の手刀によってすげなく断られ た。アンタの分でしょ、というわけだ。 「わぁ、大口」 「大口やあらへん。去年の強豪は大体一個上の人らが気張ってはったから強かっただけ や」  空になった軽い容器をふらふらと振り回しながら、シゲは殆ど真実と呼べる事実を淡 々と告げる。今年、自分たちには勝機がある。それをむざむざ逃す気は全くなかった。  聞いて、小島はふぅん、と気の無い素振りで嘯く。 「ああ、本当はシゲと同い年の人たちが凄かった、と」 「ま、そういうこっちゃな」  言いよどむ素振りも見せずただ事実を肯定したシゲに、無駄な力みは全くないように 思えた。  これが去年までだったら、とてもこうはいかなかっただろう。 「当たり年ってやつなのかしらね」  小島は適当に話題を続けつつ、くるりと足先を部室へ向けた。頃合いだった。 「んー、まぁホンマにそないな年があるんやとしたら、俺らの代も大概やけど、」  シゲも彼女の動きに倣って部室へと歩き出す。歩幅は、意識せずに揃えずとも彼女と 一緒だった。 「多分一個下の連中の方が凄いんと違うか?」 「……“風祭将”が居るから?」  その小島の問い掛けに、成樹はただ笑い返すことだけで答えた。  聡明な彼女のことだ、これだけでもう通じただろう。 「……、……私は人の惚気を聞くためにここに居るんじゃないのよ」 「さすが小島ちゃん。最高やな」 「何言ってんのよ、アンタの最高はその部室の中に居るんでしょ」  西の空から迫ってきた低く重たい灰色の雲から、堪え切れないとばかりに大粒の雨が 降ってきていた。  がたん、と部室の引き戸が開いた。  もちろん、開けた人はいつものように部室に入るつもりだった。強いて言うなら、突 然降ってきた雨から逃げるという意図もあって、いつもより乱暴なドアの開け方になっ ていたかもしれない。  が、部室で着替えているはずの部員たちはそうではなかった。 「シゲ、」  いつものように、ただ雑談に興じながら着替えているつもりはさらさらなかった。今 日に限っては。  全員が出口の――つまり自分の方を向いて、思い思いにその口を開く。声が狭い空間 に反響して、耳の奥がわんわんと疼いた。 「誕生日おめでとう!」 「おめでとうー!」 「目出度いな」 「おめでとうございます!」 「悪いな、聞いたの昨日だからなんも用意してなくてよ」 「そうですよね、伝えるのが遅すぎます」  その騒ぎを起こした元凶が申し訳なさそうに言い訳をしている様を、どこか夢のよう な気持ちで見ていた。 「いや、ちょっと色々あったんだよ……。急で悪い」 「ま、それにしても七夕の一日後だなんて、なんだかアンタらしいわよね、シゲ」  背後から綺麗なソプラノまでが追い打ちを掛けてきて、完全にこの状況が仕組まれた ものであることを理解する。理解はした、が、頭で分かったからといってそれが四肢に すぐさま伝わるかというとそれはまた別の話だった。  薄い膜の向こうで、自分の横にいつも居る人間が、笑っているのをただ呆然と網膜に 映し続けるしかない。 「七月八日。お前の誕生日で間違いないな、シゲ」 「まぁ時期が時期だし何にも用意できなかったけどよ、とりあえず一斉に祝おうって話 になってさ」 「だから、このあと別に何があるわけでもないんですよね……。すみません」  そのうちに、こめかみの辺りにどこからともなくぶわぁ、と熱が集まってきて、瞬き すら出来なくなりそうだった。 「俺がウチから腐敗しないように特性の菓子でも持ってこようかと提案したのだがな」 「不破、それだけは頼むから止めて」 「お前の家から、って時点で相当ヤバいからな!」  既に部員たちは言いたいことを口々に話出し、収拾がつかなくなっている。そんな連 中をわざと注意することもなく、水野はただその中心で苦笑するだけだった。  しかし、成樹の硬直はまだ解けない。  いっそ息をすることさえ忘れてしまったかのような彼の状態に業を煮やして、小島が ぱしりとその広い背中を叩いた。 「ちょっと、シゲ! 私早くこの雨に濡れないところに行きたいんだけど!」  とりあえず中に入ってよ、と彼女が続けた瞬間、成樹の肩からすっと力が抜けた。華 奢とは言わないまでも、決して広くはない肩が不自然にその輪郭を下げる。  真正面に立っていた水野だけが、彼と視線を合わせることを許されていた。 「いや、ホンマいきなりやな、ちょおびっくりしたわー……。あ、しもた、スマン、さ っき居った水道んとこにタオル置いてきたわ! どうせびしょ濡れやろうけど、取って くるわ、な」  水の中に放り込まれた魚の如く息継ぎ無しで喋り散らすと、最後の一言を言い終わっ てそれが皆の鼓膜に届いたと分かった瞬間、くるりと踵を返して夕立の中へと飛び出し ていった。しっとりと濡れた金髪が部室の蛍光灯を鈍く跳ね返して、その色だけが彼ら の目に焼き付いて離れない。 「……逃げたわね」  溜め息一つで今まで雨の当たるところへ居なければならなかったことを許して、小島 はむさ苦しい部室へ入ると後ろ手にドアを閉めた。途端に、あれだけうるさかった雨の 音に一枚フィルターが掛かる。 「ま、予定通りってとこか?」 「高井……」  水野の肩をぽん、と泣きたくなるほどの気軽さで叩いて、高井はそのまま手を背中へ 回し、水野を出口へぐっと押した。  そんな部員たちの雰囲気に後押しされて、水野は溜まった息を吐き出すと、 「じゃあ今日は本当に解散! しっかり汗を拭いて着替えること! あ、雨はそのうち 止むだろうからむやみに出るなよ」  この場における最後の号令を下して、一人出入口まで歩を進めた。 「さて、ここからはアンタの出番ね。傘はある?」 「……邪魔だろうから、要らない。ありがとな、小島」 「ううん、礼ならあのバカに言ってもらうから」  小島も自身の着替えが置いてある場所へと行くため一緒に部室を出て、そこで別れる。  もう、いつまでも逃げて居られないって、分かってたよな。  人との関わり方をこの春から変えたお前にはまだキツイかもしれないけれど。  こうやって、人から祝われることに、頼むから。  後編へ 続く!(まさかの!)