がやがや、人の沢山いる音が辺りに響いていた。  沢山などという生温い言葉で表すのはむしろ失礼かもしれない。なにせここはギネス 認定世界一の乗降率を誇る不夜城、新宿駅である。その中央西口バスロータリー地上階 に、手軽なショルダーバック一つの姿で、コート姿のミルクティー色をした青年が佇ん でいた。  まるで誰かを待っているかのようでもあったし、同時に誰も待っていないようにも見 えた。手持無沙汰だったのか、微糖の缶コーヒーを左手に握って、溜め息に似た白い息 を吐いている。この青年が缶コーヒーを飲むこと自体が酷く珍しいものであるというこ とを、当然周りを歩いていく通行人たちは知る由もない。ここ数年付いた、癖の一つだ った。  暇なときは、手持無沙汰な時は、……寂しいときは、缶コーヒーを飲む。 「……」  吐く息が白く濁っていることはもう既に分かっていたけれど、どうしてもそこを離れ る気にはならなかった。一時間前に音信不通となった携帯電話は、もはや無用のものと してコートのポケットにぞんざいに突っ込まれている。だって、あいつからの連絡を受 け取らない携帯なんて、無用の長物以外の何物でもなかった。  だというのに、その携帯がブブブと低い唸り声を上げる。バイブレーションのパター ンからして、どうやら電話のようだった。一瞬待ち人からの連絡かと考えるけれど、一 時間前に電池が切れた(切れそう)だという連絡は受けている。それを押してでも電話 しなければならないことが起こったのかと身構えて、結局背面ディスプレイくらい見な ければ発信者の名前も解らないのだからさっさと見てやればいいのだというありきたり な結論に達した。 「……、」  そして、果たして背面ディスプレイに示されていた人物の名前を見て、一気に脱力す る。理由は二つ、一つは待ち人からではなかったこと、もう一つは今ここで電話を掛け てくる可能性のある人物だったこと。  水野はしぶしぶと言った風を極力装って、通話ボタンを押し込んだ。 「……もしもし」 『早く出てよ。ああ、藤村からじゃなくて悪かったね』 「……。なんだよ、さっきあのバカからの連絡は途絶えたってメールしただろ?」 『それだけ打って寄越すなんて非常識なことをしてくれるからだよ。メール返そうかと 思ったけどもう面倒だったから電話にした』  先程から一方的に責め立てられている気がしてならない。いや、これは気のせいでは なく実際にそうなのだ。こいつの場合は。 『せめてあとどれくらいで着きそうだとか、どのあたりを走ってたとか、そういう情報 も一緒に知らせてくれないと困るんだけど』  理知的に光る細くて黒目がちの目が、今どんな光を宿しているかが手に取るように分 かる。ああ、いい加減十年以上似たような生活をしていると、電話越しの相手の表情ま で想像できるようになるのだなと、ある意味当たり前で、ある意味当たり前ではないこ とを考えた。 『そうだぞ水野ー。その辺が分かんないと、こっちとしても動きづれーわ』 「え、若菜?」 『おう!』  後ろの方で、「ちょっと結人、携帯返して!」という抑えた悲鳴のような声が聞こえ てきて、こっそり笑う。確かに今日集まろうという話はしていたけれど、まさかもう合 流しているとは思わなかった。流石は仲良し三人組。その仲の良さは、もはや日本全国 のサッカー好きが知るところとなった。 『ちょ……っ、もう……。もしもし水野?』 「ああ」 『ったく、いつまで経ってもこういう落ち着きのないところって変わらないのかな』 「変わって欲しいと思ってねぇ癖に」  すこしだけ、二秒の沈黙にまたしてもこっそり笑った。この男相手に勝ち星を上げら れることなどそれこそ年に一回か二回なので、折角のチャンスを逃したりはしない。  けれど、あまり突き過ぎると今度は手痛い仕返しを食らうと経験則で既に知っている ので、早々に話題を軌道修正した。 「一時間前で大月くらいっつってた。多分もう八王子も過ぎてるだろうし、もうすぐだ よ」 『ふうん? じゃあもうそろそろ行こうかな』 「は? 郭、お前今どこにいんの」 『何って実家だけど。早く戻ってこれたから、先に千葉から帰ってた結人と合流したわ け。あ、いっとくけど一馬はこの場に居ないからね』  なるほど、とどうせ相手に見えもしないのに頷くと、それを見越したかのように上手 く間を開けて、 『ま、副都心線ができたから新宿まで一本だよ』  と自分にしては初動が遅い理由を述べた。何もかもが十何年前とは違うのだと思い知 らされるにつけ、あの金髪FWと過ごした時間を思う。こんな何でもない会話の端にす らちらつくあいつの影を、一時期は心底恨んだものだけれど。  もう、仕方がないのだと諦めが付いている。 『あ、そうだ。どうせあとで会うけど、折角だから今言っておこうか?』 『馬鹿だなー英士、何のために水野がお迎えにあがってると思ってんだよ』  電話の向こうでなにやら話し声が遠ざかっている。なんとなく嫌な予感がして、 「おい?」  と口を挟んだ瞬間。 『藤村から真っ先におめでとうを言ってもらうためだろー?』  なのに俺らが先に言ったら台無しじゃん! 「な、っ……」 『ってわけだから、そっち向かうなー。んじゃまた後で!』  耳元でぶつりと電話回線の切れた音がして、すぐに無機質な電子音が繰り返し鳴り始 めた。三秒ほど通話が切れたことを示すディスプレイ表示を見て、ぱたりと携帯を閉じ る。  更に三秒。 「……っ若菜め……」  これで言われたことが事実とは違うのならまだ反論の余地はあったけれど、残念なが ら真実を言い当てられてしまったので。 「あとで会ったらとりあえず一発叩こう……」  缶コーヒーを口元に持って行きながら小さく呟く。しかし、呟きに反して口角は僅か に上がっていた。  あとは、あのバカみたいな金髪が、バスから降りてくるのを待つだけだ。そして、早 く第一声を聞くために、寒い外で待ち続ける。  待っている時間が苦にならないことを、どこか諦めるような気持ちで笑った。