「そういやお前、幾つなの?」 「幾つに見える?」 「バーカ、」  ごつ、と全く力の入っていない裏拳が飛んでくる。こんな狭い助手席で、しかもきっ ちりシートベルトをした状態では避けようがなく、黒い髪の中に隣で車を運転する男の 拳がめり込んだ。いつか、この黒髪も脱色したいと思っている。 「そういうのはもっと歳食ってから言うんだよ」  もしくは、綺麗なオネーチャンとかがな。  そう言って、くく、と喉の奥で笑う男は、楽しそうにハンドルを左へ傾けた。夏の始 め、真夜中、丑三つ時すら過ぎた午前四時の山陽道。 「ええー」  黒い髪の男の子は、少し拗ねた声を出した。そういう声を出すことは、昔なら忌避し ていたことだけれど、今ならなにも躊躇することもない。知り合いもいない、罵られる こともない、陰口を言われることもない、母親を傷つけることもない。大丈夫、分かっ ている、これは逃避行。 「そうかもしれへんけど、ホンマ、偏見のない意見を聞かせて欲しいわぁ」 「偏見?」 「ああ、こういうときには言わんなぁ……ああ、先入観っちゅうやっちゃ!」  運転手である男は、ああ、と納得した声を出す。先入観のない状態で、純粋に、この 助手席に座る子供が何歳に見えるか、という話。 「んー、十四、にしちゃあちょっとちまっこいわなぁ」 「ちまっ……?」 「じゃあ、十三!」  お前くらいの歳なら、一年ごとに分らぁな。成長期ってのは怖いもんだ、と男は豪快 に笑った。  まだ夜は明けない。対向車はトラックばかりで、道路の脇に等間隔で備え付けられて いる街灯がフロントガラスを滑るように後方へ流れる。  その様子をただ眺めて、けれど男は子供から返答がなくてもそれを急かそうとはしな かった。その優しさが、苦しい。  人間とは、どうしてみんな優しくないのだろうか。  いっそ、全ての人間が優しくなければ、こんなに悩まなくても、苦しまなくても、あ の温かくて冷たい古都を飛び出さなくてもよかったのに。 「……おっちゃん、」 「お兄さんと呼べっつってんだろー。次言ったら高速だろうが何だろうが蹴り出すぞ」 「きゃー、お巡りさんここに殺人を宣言しはった人がー!」 「……なに、ホントに志願してんの?」 「いややわぁ、ちょお沸点低いんとちゃうの? 休憩せえやー」  んー、そうだなぁ、と思いの外すんなりと生意気な子供の意見を受け入れて、男は車 線を左へ寄せた。パーキングに入るつもりなのだろう。思えば、ここ三、四時間ほどぶ っ続けで運転していた。それに付き合っている子供も大概だが。 「お疲れさんですー。無事故なんが俺一番嬉しいわ。ええ人に出会ったもんや」 「へーへー、何とでも。お前は乗ってるだけだもんなぁ」  ぐぐっと伸びをして、ばたんとドアを閉じる。深夜のパーキングエリアは、営業を終 えた食堂や土産物売り場がひっそりと闇の中で息をしていた。唯一、トイレだけが妙に 明るくて、まるで田舎のコンビニ並の違和感を放っている。 「何言うてんの、乗せてくれはったんお兄さんやん」  鍵がきちんと掛かっているのを確認し終えた男が追いつくのを待って、子供はその長 身を見上げながら笑う。  その笑い方は本当と嘘の間をうろついていて、そんな表情が十何歳かの顔に張り付い ているのを酷い違和感と共に見つめた。こういう表情をするには、それに見合う理由が なければならないけれど、それを聞くつもりはない。言いたければ言えば良いし、聞か れたくないけれど言いたいのなら、窓を開けて轟音を作り出してやろう。どうせ碌な声 は聞こえまい。けれど、声変わりの第一段階が終わったあたり、まだ少し高い声は、も しかしたらその轟音すらはねのけてしまう可能性もあったけれど。 「なぁ、」 「ん?」  二人してトイレに立ち寄り、男は煙草をふかすためにひっそりとした建物の裏に向か った。子供も付いてきたけれど、まあ本人が煙を嫌がらないならいいだろう。というよ り、むしろこの口の減らない子供のためにわざわざそんな人目につかないところを選ん だのだ。  トラックの運転手には善人ばかりいる訳ではない。こんな深夜四時、小さい子供はそ れだけでもトラブルのネタになりかねなかった。だからといって、外に出さなければ出 さなかったでまた駄々をこねるに違いない。それならいっそ外で自分の目の届く範囲に 居てくれた方が生産性がある。 「お兄さん、エスパーかなんかなん?」 「はぁ?」  子供が男と同じ方向を向いて、少しうつむきながら吐きだす言葉を、勿体ないので一 言たりとも逃さないように傾注する。 「なんで? んなことねぇけど……」  そこまで意識せずに口を滑らせて、それからはたと思い当たる。 「ああ、もしかして歳当たった?」 「うん」  こくり、と所在なさ気に頷いたそのつむじが本当に年相応に見えて、思わず両手が伸 びかけたけれど、右手にあった煙草がそれを押しとどめる。  ああ、良かった。  何かと必死で戦っているこの小さな子供に余計な温もりを与えてしまわなくて、本当 に良かった。 「十三、なぁ……」 「ホンマに歳ってそないにすぐ分かるモンなん?」 「なんで?」 「……」  質問の意図を図りかねて聞き返すと、何故か返ってきたのは沈黙だった。仕方ないの で、正直に質問にだけ答えることにする。 「そうだな……。別に正確に分かるもんじゃないけど、まあアタリはつくだろうよ。大 体何歳くらい、ってのはな」 「へぇ」  微かに感想を漏らすと、それきりまた子供は口を噤んだ。  男は、そんな子供のためにも早く出発してやろうと、残り五センチほどの煙草を少し 急いで吸った。とめどない夜の闇が、建物の裏にまでびっしりと覆い尽くして、少し息 が詰まった。  また、フロントガラスを街灯が滑り落ちていく。言葉のない、エンジン音とタイヤが 道路を走る音とトラックが風を切る音の支配する運転席だった。  あれだけ夜を席巻していた闇が、うっすらと藍色の薄墨を流しこんだように優しく変 化していく。  黙っているのだから寝ているのかと思いきや、子供はただ真正面を睨みつけるように 見つめていた。夜の明けるのを待つように、けれど優しい藍色を撥ね退けて夜の明ける のを拒むように。  やはり先程抱き締めてしまえばよかったのだろうか。いや、でも、恐らくその温もり の温度を覚えてしまったら、この子はきっとぽっきり折れてしまう。折れないだけの芯 を持ってからでなければ、きっと。  この子を助けだすのは、少なくとも自分ではないと思った。誰かは知らないけれど、 でも自分ではないということは分かっていた。  だから、トラックの運転をしているだけの自分だけれど、今に太陽に掻き消される星 々に祈る。  この子を抱きしめる腕を、祈る。 「……、」 「……何?」  その瞬間、子供が何かを呟いたような気がして、思わず訊き返した。なるべく、優し い口調になるよう気を付ける。 「よあけ、や」  口の良く回る子供にしては、妙に舌っ足らずな音で紡がれた音だった。  街灯の上に広がる空は、確かに藍色を通り越して濃い青に変化していた。バックミラ ーには、遠くの空がオレンジへ変化していているのが見える。 「夜明けだなぁ」 「うん」  子供はサイドミラーに視線を固定したまま、ボツリと言った。  それでも、ようやく来た夜明けに、小さく笑いながら。 「今日、十三になった」  伸ばした黒髪が、揺れるトラックの中で小さく跳ねている。 「え、今日? 誕生日?」 「そうやて言うとるやん。なんでそない驚くん?」 「そりゃ驚くだろ」  だって、お前誕生日とか知られるの嫌そうだし。  そう言ったら、いままで少し笑っていた顔のままで固まった。ああ、図星かな。 「ああ、でも通りすがりの俺みたいのには言うかな。どうせこれっきりだしなぁ」  何があったかは知らないけれど。  でも、その顔が泣きそうに歪むので。 「通りすがりの俺にだったら、祝われても良いんだな?」 「……うん」  泣く寸前の声が、縋るように男の横顔にぶつかって弾けた。  ここに居ることを、この呑まれそうな夜の闇の中を、それでも必死に生きている、十 三年目の命に祝福を。 「誕生日、おめでとう」  それでも零れ落ちない涙が、無償に愛おしかった。