すぅ、と自分の目蓋が開く音がして、けれど飛び込んできた視覚情報を竜也は上手く処 理することができなかった。  直前まで見ていた夢の残滓が、更に覚醒を邪魔してくる。起きる必要があるならまだし も、確か急がなければいけないことはなにもないはずだった。だから、もう一度目を閉じ る。 「……ん?」  けれど、目を閉じ切る直前に、何か気になるものが見えていた気がした。いや、正確に は、目を閉じた現在、何かをその前に見ていた気がして、それが非常に気にかかる。  だが、正直に言ってもう既に目は閉じているのだし、このままもう一度寝る気だったの で、再びその気になるもののために起きる気にはならない。 「……」  と思っていたのだが、結局竜也はその十秒後、目を開くことにした。その意識に引っか かっているものを放置したまま寝ようとしても、どうせ気になっている以上そのまま眠る ことなどできなかったからだ。  いい加減、自分自身とも長い付き合いなのだし、そこらへんの自分のパターンを熟知し ていてもよさそうなものだが、生憎水野竜也という人間はそれを分かっていても一度は逆 らってみる性質だった。この場合だと、一度は眠ってみようとした、ということがそれに 当たる。  まあ、自分のことは、こういう人間なのだから、という一種の諦めが付いたのも割と他 の人よりは遅かったし、それはそれで仕方ないのかもしれなかった。  ようやく考え方が大人になってきたね、とこの間対戦した時に出会った郭に言われたけ れど、それはそれで自分ではよく分からない。まあ、自分の感情と折り合いを付けるのは 上手くなったとは思う。そう言ったら、そういうことが出来るのって世間じゃ大人って言 うはずなんだけどね、と苦笑された。  しかし、あとになってよく考えてみたら、「大人になったね」ではなくて「大人になっ てきたね」と言われたのだと気づいた。……要は、まだまだ大人になるには遠いというこ とである。そういう郭はどうなんだ、と聞いてみたくもなるけれど、そんなもの聞くまで もなく向こうの方が何枚も何枚も上手だと分かっている。そんな人に、わざわざ自滅する ような質問をするはずがない。  うたたねしていたソファから、体を起こさないままローテーブルの上に放り出していた 携帯に手を伸ばすが、あと少しのところでストラップに引っかからない。  これが一昔前だと、意地になってどうにかして寝たまま携帯を手に入れようともがくの だろうけれど、今の竜也はあっさりと上半身を起こして、伸ばした手に携帯を収めた。あ あ、こういうところが増えると、それが大人になるということなのかもしれない。 「あ、」  目蓋を閉じる直前に気になったもの、イコール携帯だった。携帯の背面ディスプレイが メールや着信のあったときには綺麗な光を発し続けるのだが、それがまさに今光っている のである。  急ぎの用事ではないと思うが、その光を見て気になったが最後、竜也はまどろみから抜 け出すことになった。まあ、気になったものは仕方ない。  ずるずると、また元の寝そべった体勢に戻りながら、二つ折りの携帯を慣れた仕草でか ぱりと開き、受信メールのボックスを見る。 「え、……孝子?」  すると、思いもかけない名前をそこに見て、思わず声が出る。  家族なのだし、もちろん電話もメールもするけれど、こんな深夜一時に何かをしてくる 相手ではなかった。携帯のメールなど好きな時に見るから好きな時に送ってこい、と言っ ても、どうも気遣いが先に立つらしく、水野家の長女は未だにおよそ人が暇そうな、もし くは起きていそうな時間帯に連絡をよこすのが常だった。  それが、この時間である。見れば、メールが送られてきた時間はちょうど五分前で、恐 らく竜也はこのメールが届いたことを知らせるバイブレーションと机の奏でる騒音で目が 覚めたようだった。  頭の中を疑問符で溢れさせながらも、竜也はそのメールをボタン一つで開封した。まっ たく、便利な時代になったものだ、とそれこそ孝子や母親や百合子が聞いたらお前が言う なと言わんばかりの感想を抱きつつ、切り替わった画面に目を走らせる。 「……、百合子との連名、」  そこに書かれていた文面は、何も特別な顔文字もデコレーションもなかったけれど、だ からこそ素直にするりと竜也の心の中に入り込んで、嬉しさを撒き散らした。  もうあの家を出て十年弱が経とうとしているのに、こんなにも竜也を家族の勘定の中に 組み込んでいる彼女たちが愛しくて仕方がなかった。  この間久しぶりに帰ったら、その背の小ささと体の線の細さに愕然としたものだ。自分 が大きくなったということもあるのでそれは素直に嬉しいが、それはそれとして、伯母た ちはこんなにも小さかっただろうかとその事実に納得できなかったことを思い出す。だっ て、今なお彼女たちの醸し出す存在感は抜群で、そんな人たちがこんなに細い体をしてい るだなんて俄かには信じられなかったのだ。  思えば、あの姉妹はいつまでも若いように見えるが、自分が年を取っているのと同じよ うに彼女たちも年を重ねているのだし、まあ、当然と言えば当然なのだけれど。 「……」  そんな伯母たち二人から、と銘打たれたメールを読んで、さてどう返信したものかと考 える。折角起きたのだから、すぐに返事を打ちたかった。  とりあえず、お礼。それから、次に帰る大体の時期。あと、向こうの体調を気遣う文も 差しこんだ。タイトルを変えて、ああ、それから、返信先のアドレスを一つ追加する。  それから、最後に、いつも家に居る時していたように。 「――、っと」  送信のボタンを軽やかに押して、送信完了の画面に切り替わったのを確認してから、竜 也は風呂に入るべくのそりと立ち上がった。恐らく、あの二人ならこれから返信してくる ことはないだろう。もし何か言いたいことがあるなら、それは朝日が昇ってからまた送っ てくるはずだ。  ああでも、孝子ほど昔の感覚を持っていない百合子なら、今すぐ返信してきたっておか しくはないのだが。まあ、そうだったとしても、もう寝てしまったことにして、返事を返 すのは朝になったら、と自分の中で決める。  そうでもしないと、メールというものは厄介で、いつまでたっても切り時が分からなく なり、だらだらと続いてしまうことも多いからだ。残念ながら、明日――いや、今日は、 午前中から練習が入っているので、そんなに遅くまで起きているわけにもいかない。 「……」  そもそも、二人がメールをくれたからよかったものの、うたたねする羽目になったのは アイツのせいだ、とともすれば理不尽だと嘆かれそうな理由で、竜也はある人に心を飛ば す。  日付が変わった瞬間に毎年毎年掛かってくる電話が楽しみで、その電話を受けて切った あと緊張が切れて眠ってしまっただなんて、自分で分かっているからこそ尚更口が裂けて も言えない。  でも、毎年くれる祝いの言葉は、何回聞いて何回思い返してもいいものだ、と竜也はゆ るりと微笑んだ。あのバカのお祝いは必ずメールではなくて電話で、それは自分も向こう も直接会いたいところをぐっと我慢しているからこそ、文章では物足りないからだと分か っている。  そう言ったところでアイツがそれを認めるかどうかはまた別問題だな、とぼんやり考え つつ、沸いたらしい風呂へと足を運んだ。  風呂から上がった竜也は、しかし思いがけないことに遭遇した。  てっきり返してこないと思っていたのに、携帯に新しい着信メールが二通。孝子と百合 子から、同じ文面を、わざわざそれぞれの携帯から打ってくれた。  心の中でもう一度呟いて、それから竜也は眠るべくベッドへ向かう。そういう挨拶を交 わす家族であることを、二十五になったこの日に、もう一度強く痛感する。  おやすみなさい。