08' 07,08の続きです。  その日、学校から帰ると、同居人たちは総じて居なかった。  ぐだぐだになるまで飲んだかと思えばけろっとしていたり、今日もあれだけ大掛かりな ことをやり遂げて、何事もなかったかのようにそれぞれの用事へ出かけていく。 「……よう分からん」  よく分からない人たちだと思う。本当に。自分が言うのだから確かだ。  この場に三人のうちの誰かが居れば、「“よう分からん”のはお前だ」と呆れられたり するのだろうか。するだろうな、と一人で納得して、上がり框に腰掛けると靴を脱ぐ。な んとなく、今日はそうやって家に入りたかった。いつもなら踵で靴を交互に踏みつけて、 それで終わりなのに。  喉が渇いた、と台所へ向かえば、そこには山と詰まれた食器が待ち構えていた。水切り のトレーには蒸発した水の跡が点々と残っていて、否応なく今朝を思い出させる。 「……まぁ、仕舞っとくくらいなら」  口をついたのはそんな言葉だったが、実際にはその位しなければ罰が当たると思う。  一体いつ自分は誕生日の事など口走ったのかと今日中考えていたのだが、思い当たると いえば一つしかなかった。  あの、酒盛りに参加した日だ。  あの日は、気づいたら朝になっていて、けれどちゃんと自分の部屋で寝ていた。頭が万 力で締め付けられるような感触が少しだけして、ああ、これが世に言う二日酔いか、と納 得はしたが、正直そんなにいいものでもなかった。これからは、もっと楽しい酒の飲み方 を教わろうと思う。 「……」  水道の蛇口から溢れてくる水で、両手の汚れは大分取れた。石鹸をつけて、手をこすり 合わせて、それから流す。一連の動作はもう何千回とやってきて、すっかり体に染み付い ているものだったけれど、そんな動作でなければ、つまり今慣れないことをしていたとし たら、確実に作業が止まっていた。  自分は、今、何を考えた? 「……あー、」  何かを教わろう、やって。自分の中で少し馬鹿にしたような声が響く。  いろんな関係や、そういうしがらみが鬱陶しくなって、だからあの古い古いしきたりの 残る綺麗な町を飛び出してきたのではないのか。なのに、こんなに遠くまで来たのに、ま た自分はそのしがらみを手繰り寄せようとしている。  誕生日まで教えてしまった。もしかしたら、もっと変なことも口走ってしまったかもし れない。ここの住人は本当に優しいから、それが判るから、何も言わないようにしようと していたのに。  嫌だな、とそれだけは判る落ち着かない気持ちを抱きながら、それでも宴に使われた食 器を丁寧に棚へ収めていく。これはここ、あの大皿はあっち。もうすっかり覚えてしまっ た。 「……またどっか行こかなぁ」 「そりゃ困る。貴重な男手をどうして手放さにゃならんのじゃ」  小さく、自分だけに聞かせるために呟いて、それでお仕舞いだったはずの言葉を拾われ てしまった。しかも、よりにもよって。 「和尚……」  小柄な体は袈裟に包まれて、本当に着ているというよりは着られていると言ったほうが 正しいような様子だった。そういえば、どこかへ法事へ行くと言っていたような記憶を引 っ張り出して、ということは今帰ってきたのだろう、と当たりをつける。 「寺はいくら人手があっても足りんのよ。……喉が渇いた、茶はあるかの」 「……、作り置きの麦茶なら」 「氷入れてくれ」 「へいへい」  冷蔵庫から麦茶を出して、グラスに注いで、氷を落とす。その一連の動作を、和尚はず っと見つめていた。 「なんやの、そないに見つめて。シゲちゃんの美貌に見惚れたんか?」  トーンを高くして、精一杯の営業スマイルを浮かべると、和尚は呆れた、というように 長い溜息を一つだけ吐いて、それから麦茶をごくごく飲んだ。一気飲みだった。  ぷは、と今度は呼吸するための音がして、それから台所には沈黙が落ちる。  シゲがその沈黙に耐え切れずに背を向けて、また食器を仕舞いだしたのを一分くらい見 て、それから和尚は口を開いた。 「というわけで、ワシにはお前さんを止める権利はありゃせんが、手放すつもりは毛頭な い。質問は?」  今度口を開くのはシゲの番だった。思わず振り返って、その人を見下ろす。  なんという矛盾。 「……アホちゃうか? 自分の言ったことよう考えてみぃ」 「人に向かってアホとは何じゃ! まだバカの方が聞こえがいいわい」 「ああ、そういや東西で逆やったな、その感覚」  なんてことはどうでもいい。 「で、質問は?」 「……あらへん、けど」 「けど?」 「……」  黙ってみたところで、何が解決するわけもない。袈裟姿の和尚はまだ自分の目の前にい て、自分の言葉を待っている。 「……居ってもええんかな、こないなとこに」 「なんじゃ、気に入らんことでもあったか?」 「そうやない。今日も、」  そこまで口走って、そういえば和尚は自分の誕生日を知らないのだと気づく。いや、け れどあの三人が教えていたら、知っていることになる。 「今日、なぁ。なんかの記念日じゃったかな」  どっちだ、と焦ったところにそんな言葉が聞こえてくる。ばっ、と勢いをつけて、知ら ず俯いていた視線を上げると、にやりと笑って顎鬚を撫でる和尚が映った。 「思い出せんなぁ……。シゲ、お主なら知っとると思うがの」  こんのアホ和尚……! といくら心中で罵ったところでどうしようもない。はぐらかそ うにも、いい案が浮かばない。知らない、といったところで、この追及の手は逃れ切れな い。  シゲは半ば自棄になって、気づいたら叫ぶように明かしていた。 「今日は、俺の誕生日や、」 「おめでとう」  しかし、間髪入れずに告げられた一言に絶句する。え、と呆然としたまま呟けば、もう 一度、もっともっと優しい声が届いた。 「おめでとう、シゲ。十四になったんじゃな」 「え、あ、」  じり、と何が起こっているのか理解できていない頭で、とりあえず得体の知れないもの からは遠ざかるという本能の下、半歩下がる。けれど、和尚はそんなシゲでさえ微笑んで 見つめていて、尚のこと居たたまれなくなった。 「知っとるわい。昨日の夜からあやつらが大騒ぎしとったしの」  背中を嫌な汗が伝う。ずるいずるい、こんなのもう反則じゃないか、そんな優しい目は 知らない、などと思考が完全に自制の下を離れて、ごちゃごちゃと纏まらないことを言っ ている。 「ほれ、何か言うことがあるじゃろ」  しかし、和尚の一言で、その思考が騒ぐのを止めた。凪いだ頭の中で、言わなくてはい けない一言だけがふわりと浮かんでいる。その一言を言うのに、どれだけ心が喰われるこ とか。けれど、言わないわけにはいかないのだ。  だって、自分は今、本当にそう思っているのだから。 「お、……、おおきに」  ありがとう、ありがとう、心の中なら何回でも言えた。なのに、口を開いてきちんと発 音できる自信がなくて、だから関西弁で逃げの一手を打った。本当は、関東の人には関東 の言葉で返したいのに、どうしてかこそばゆい。  けれど、和尚はきちんと笑って、どういたしまして、と返してくれたので。 「さて、それじゃあ着替えて来ようかの。今日の夕飯は何じゃ?」 「えー、誕生日の人間に作らせるんー? ここはいっちょ出前でもどうでっしゃろ」 「ふむ……。よし、そうするか」 「よっしゃ! 寿司な、寿司がええ!」  今日は、今日だけは、甘える覚悟が出来た。