頬をぺた、と触られた。冷たい。  何かと思って反射的に払いのけたら、ちょうど真後ろにいた百合子がびっくりしたよう に固まったままそこに在った。 「あ、」 「いやいや、謝んなくていいわよ。イタズラしたのはこっちだしね」  しかし、竜也がしっかりした言葉を紡ぎ出す前に先を制される。ぱたぱた、彼女の手が 目の前で振られるのを申し訳なく見つめた。 「まさかそんなに嫌がられるとは思ってなかったけど」  笑う彼女の指先に、また新しい傷痕を見つけて、時間の流れを知った。針仕事を知る指 の綺麗なことといったら、あの男の器用な指先と遜色ない。そうだ、そもそもあいつのせ いで、今百合子に失礼を働いてしまったじゃないか。 「ごめん、……前にそうやってやってくる奴が居たから、つい」  要らないと言われたけれど、それでも目を合わせて謝った。いくら家族とはいえ、戯れ に伸ばされた手を問答無用で払いのけていい法はない。  百合子ももう一度否定することなく、その謝罪を受け入れた。それと、彼女の口元が何 かを思いついた! と笑ったのが同時だった。 「あー、シゲちゃんでしょ、奴って」  図星を指されたときの自分の対応を、いい加減どうにかならないだろうかと思ってはみ るものの、今のところどうにもならないのが現状だ。その証拠に、目の前の叔母の顔が嬉 しそうに歪んでいる。 「近頃うちに来なくなったけど」  その先には、普通なら「何かあったの?」と続くはずだった。けれど、代わりに竜也が 聞いたのは無機質な空白で、その優しさに下唇を噛む。 「ねぇ、時間あるなら、手伝ってくれない?」  くるりと踵を返して歩き出す百合子の背中を追うと、その細い姿はキッチンへ吸い込ま れていった。ああ、手が冷たかったのは水のせいか。皿洗いをしていたのだろう、そうか 道理で、と納得がいった。  無言で手渡された真っ白な布巾と、この状況に強烈なデジャヴを覚えて、一瞬眩暈がし たのかと思った。  ……ああ、そうか。  これは、この状況は、あの古くて優しい寺でも出くわしているのだ。 「竜也? これよろしく」  しかし、聞こえてきたのはあいつの声ではなくて、トーンの高い、叔母の声だ。聞きな れて、耳に心地い声。母親の真理子も、その姉の孝子も、祖母もそうだけれど、クラスメ イトとは違う声だな、と思う。当然と言えば当然なのだけれど、どうも同級生の女の子た ちの声は好きになれなかった。  とにかく、手元に目線を落とすと、そこには今晩使った白い磁器の皿が差し出されてい た。釉薬の上に付いて滑っていく水滴が、シンクのわきに水たまりを作っている。  こんな水たまりまで、あの頃と同じだ。  そのうち、黒く艶のある百合子の髪が金髪にでも見えてきそうで、竜也は必死に皿拭き に神経を集中させた。 「何そんなムキになってやってんのよ」  そんな力入れなくたって拭けるわ、と笑われて、初めて恥ずかしくなった。 「べ、別に……」  何でもないよ、そう言いたかった。……言えなかった。 「ほら、次の皿。いつまでも一つにかまけてたら終わんないでしょ」  ……一つにかまけてたら終わんない。人の関係も、か?  次の皿も、さっきと同じ形をしていた。それはそうだ、今日は孝子は外で食べると言っ ていたけれど、その他の皆は一緒に同じ食事をとったのだから、同じ皿が四枚ずつあるこ とになる。  そういえば、同じ食事を、食卓や膝を突き合わせて食べる、というのは、思うより特別 なことなのかもしれなかった。もう、きっと二度と、あいつとは、できない。 「……ねぇ、」 「んー? なあに?」  鼻歌でも歌うように、百合子は応えた。百合子になら、訊けるだろうか。真理子には、 口が裂けても聞けないこと。 「一人のことを、考えたくないのに考えてるのって、何?」  訊けやしない。 「……竜也、あんたそれマジで言ってん……のよね、そうよね」  十二歳のする質問としては若干遅れてると言えなくもないような、と思ったことは胸の うちに仕舞われる。下手にからかうべきではない。そういう風に、この子はできていない と百合子にも判っていた。 「あのね、」 「うん」 「考えたくない、って思ってる時点で、その人のことを考えてることになるわよね」  三秒間のブランクをもって、竜也の脳内が百合子の言ったことをようやく処理したらし い。うん、と珍しく素直に頷いている。 「それが何か、ってことでしょ? ――名前が付いてるわ。きっと、もう竜也も知ってる と思う」  洗い終わった皿を、また一枚、甥の手に握らせる。ああ、この皿が綺麗になるように、 人の心の思いも落とせてしまえたらいいのに、なんて考えてるのかもしれない。この小さ な王子様は。 「でも、教えない」 「は? なんだよ、それ」 「だって、とっても素敵な名前だからね。自分で見つけた方が、ずっとずっと後悔も喜び も大きいのよ」  人生経験則です、と微笑んだ百合子の顔を、竜也はきっと忘れないだろう。  だって、酷い話だ。  その百合子の顔さえ、いつかいろんな感情をないまぜにして、それでも笑った、あの日 のあいつに似ていたんだから。  ※何やってても、あいつに繋がっていく、だなんて。   ちなみに、水野が中一の秋の話です。