その日は、この頃の放課後の習慣になりつつある、フットサル場へ向かっていた。きっ と、高校に入っても、仮にこのままアンダーに選抜され続けていても、これだけは止めら れないだろうな、と思っている。  暇があれば、そこへ通った。電車を二つ乗り継いで、決して近くもないけれど。  瞼の奥でちらつくのは、いつでも元気に、そして必死にサッカーボールを追っていた、 その姿。小さい体で、フィジカルが弱点だったお互いが、あの場で少しでも強くなれた気 がしていた。黒い髪が汗に濡れて、それでも酷く綺麗だった、のに。  今、自分の隣には、誰も居ない。  電車の車内アナウンスに背中を押されて、ようやくプラットホームに立った。人波に呑 まれそうになって、慌てて一歩を踏む。 この場所だけは、相変わらず変わりないな。  フットサル場に着いて、少しほっとした自分がいる。まるで、自分の家へ着いたときみ たいだった。まあ、ある意味馴れ親しんだ場所だから、自分のテリトリーと呼べなくもな いだろう。  もう既に幾つかの試合が行われているようだ。そこかしこで、熱い声援や眼差しが飛び 交っている。  今現在、杉原は一人だ。適当にそこら辺をうろつき、声を掛けられたチームに混ぜても らうようにしている。たまになら、自分から頼みに行くこともした。結局、体を動かせな いのなら、何の意味もないからだ。  ちらちらと辺りをまんべんなく見渡しながら、杉原は仲間探しを始めた。30分経って 見付からなかったら、こちらから声を掛けることにしている。  今回はどうかな、と思って歩いていると、思いの外早く、 「おーい、」 「あ、この間の」 「なぁ、また面子足りねぇんだけど、良かったら」 「じゃあ、宜しくお願いします」  といった流れで見つけることができた。大体が、その場のノリとテンションで呼吸して いるのだ、こういうところに集う人たちは。将が好きだったのも、判る気がする。  2ゲームほどその人たちと組んで、また今度も会えたら、と言って別れた。次の約束な ど、しないのが普通の場所だ。第一、杉原自身も、暇があれば、というくらいの出没頻度 なのだから、次の約束などしたところで守られる保証などない。  ……まぁ、来年の今日なら、来ているかもしれないけど。  コートから少し離れた芝生の広場に腰を下ろして、スポーツドリンクを一気に飲む。五 百ミリリットルのペットボトルを半分以上空にして、ようやく喉の乾きが引いた。そのま ま、エナメルのスポーツバッグを枕に、芝生へ倒れこむ。激しいフットサルのゲームは、 こうしてゲームをしていくうちにどんどん頭の中が真っ白になっていく気がして、とても 好きだ。  焦点をわざと飛ばして、ぼうっと寝ころんでいたら、急に今まで見えていた街灯の光が 遮られた。視界が真っ黒になって、けれどその中に人間の双眸が光る。 「起きてんの?」 「うん、そうみたい。……ちょっと杉原、いくらなんでももう十月になったんだし、外で 寝るのはどうかと思うよ」 「……その前に、なにその組み合わせ……」  むくり、と上半身を起こすと、一瞬頭がくらくらして視界が歪んだ。ぎゅっと目を瞑っ て、下を向いていれば通り過ぎると判っていたけれど、この二人の前でそうするのはどう も気が向かない。 「おい、杉原?」  しかし、ただでさえ聡い人たちの前では、誤魔化しきれるはずもなく。しかたなしに、 杉原は体の欲求に従うことにした。 「大丈夫だよ、ちょっとこうしてれば治る……――うん、もう平気」  ゆらりと顔を上げた彼の顔色を、少し離れたコートからの光で確認して、二人――郭と 水野はほっと息をついた。全く、人が少々低血圧と戦ったくらいで大げさな。 「で? もう一度聞くけど、なにその組み合わせ。どうしたの」 「えーっと。……なぁ、郭、コレどう説明すればいいと思う?」 「知らないよ。俺は付き添いみたいなもんだし、」 「違う。俺の方が付き添いだよ」 「あーはいはい、そういうことになるのかもね。というか、説明もなにも、こんなこと言 い出したのは風祭でしょ」 「は? カザくんが何?」  彼は今、ドイツに居るはずなのだが。あの試合で怪我を負った足の治療のために。  そんな彼が、いったい何を言ったというのだろうか。 「まあ、説明面倒だから、これ読めよ。あ、あの外灯のとこへ行った方がいいな。ここ暗 いし」  水野が、バッグから取り出した封筒を手渡してきた。満足に光源のない中でも判る、そ の縁取りはエアメールのそれだった。  三人は、さらにコートから離れた外灯の元で、そのエアメールを開く。郭はもう既に一 回読んだことのあるようで、覗き込んでは来なかった。一方、覗き込んでくる水野は、思 うにもう何回も読んでいるんじゃないだろうか。だって、この手紙は水野宛だ。  少しだけ、手紙を開く手が震えている。誰からか、だなんて言われなくても判る。 「――……カザ、くん……」 「まぁ、そういうわけで」 「……ねぇ、これはなんて言えばいいわけ? ものすごくありがたいし嬉しいんだけど、 ものすごく余計なお世話と言うかなんというか」  うん、判るよ、と郭が苦笑して、杉原の手から手紙をするりと抜き取った。ああ、郭が この手紙を初めて読んだ時の反応が容易に想像できる。きっと、一度はかなり不機嫌にな っただろう。けれど、次の瞬間には、今の顔をして仕方ないなと笑ったはずだ。  だって、風祭将という人を、よくよく知っているから。 「水野、この手紙の返事は書かせてね」  もちろん、と彼が頷く。ミルクティーの茶色い髪が、その動作と一緒にさらさら流れて は元に戻った。と、水野の返事を見届けずに、杉原が小首を傾げて数トーン高い声を出し た。 「……あれ? 僕の住所知ってるんじゃなかったかな、カザくん。教えた気がする」  そうだ。あの日、成田を発つ前に、確かに教えた。 「例え知ってても、この内容をそっくりそのまま杉原に書いて送ったところで、なにも起 きないでしょ?」 「ああ、それは、……そうだね」  郭が手紙に再度目を通しながら、しれっとしたいつもの調子で、確実に現実であろう事 実を告げてくれた。確かにこんなこと、自分で頼みに行ったりなんか間違っても絶対しな い。例え、それが多少なりと待ち望んでいたことであっても。 「というわけだ。どうする、杉原?」 「どうするもこうするも……。そもそも、肝心のフットサルすらできないよね。人数足り なすぎるし」 「……いや、それがさ、」  大変言いにくいんだけど、と前置きをした水野は確かに、ものすごく気まずいです、と 顔に書いた状態で杉原の前に立っていた。だからと言って、追及の手を緩めることはしな い。こういう時には容赦しない方が後々自分のためになることが多い、とこれまでの経験 で知っていた。 「なぁに、水野」  言い逃れはしないでね? と杉原の後ろになにか漫画的なモノローグが見えた気がした が、幻だと水野は信じて、その先を告げた。 「実はさ、この手紙の内容が若菜と真田にばれて……」 「仕方ないから、連れてきたんだよ。はい、トータル何人でしょう?」  質問にする必要性は全く見いだせなかったが、そんなもの、わざわざ計算するまでもな い。フットサルは、1チーム5人編成。杉原と、水野と郭と若菜と真田。  はーっ、と長く息を吐き出して、杉原は少し冷たくなった秋の空気を肺いっぱいに吸い 込んだ。足元に置いたバッグを、よいしょと肩に斜め掛けにして、郭に問う。 「……で? 二人はどこにいるの?」  今にも歩き出しそうな杉原を、二人はきょとんと見つめ返す。どちらかというと、郭は 面白がっているようにも見えたが。  けれど、杉原がいたって本気だと数秒後には理解して、二人とも何も言わずに自分のバ ッグを持ち上げる。あっちだよ、と郭はまず先に二人のいる方向を指さしてみせた。  その時、水野が、郭の手でまた封筒に戻されたエアメールをしっかりと仕舞い込もうと して、ふと手を止める。 「なぁ、杉原。お前、これ持っとけよ」  ずいっと目の前に手紙を突きつけると、しかし杉原は何とも言えない顔をした。 「確かに、水野が持っててもしょうがない内容だとは思うけど……。うん、でも、ごめん ね。それはやっぱり水野宛だから。それに返事を書いたら、きっと僕宛に手紙が来るだろ うし」  で、その手紙は僕の、ってことで。  水野はしばし自分の持つ手紙と杉原とを交互に見やっていたが、そうか、と少しだけ笑 って、当初の予定通り手紙をバッグの中に仕舞った。エアメール特有の赤と青と白の縞模 様が、少しだけはみ出している。 「あ、それともうひとつ」 「え?」 「こんなに遠くにいて祝った奴がいるのに、直接会ってる俺らが言わない、っておかしい じゃない?」  その瞬間、何を言われるのか判ったけれど、判ったところでどうしようもない。ただた だ、下手なリアクションをしないように身構える。 「そりゃそうだ。――杉原、」 「「誕生日、おめでとう」」  けれど。  身構えたところで、この言葉の持つ威力には敵わないのだ。去年は風祭や小岩、不破や その他フットサルの知り合いたちに祝われた。決して忘れはしないけれど。  今日、またその記憶を上塗るように、思い出が、増えた。  その言葉を言ってくれた人が違っても、込められた思いが一緒だと知っているから。 「ありがとう」  黒さなど欠片も混ぜない、純度百パーセントの笑みでお礼に代えた。  水野くん、本当はこんなことを頼むのは筋違いだと判っているのですが、どうしても頼 みたいお願いがあります。  十月一日、杉原くんが誕生日なんだ。去年は、フットサル場でたくさんお祝いしたんだ よ。  その時、また来年も同じ場所で祝おう、って言ったんだけど、僕がドイツへ行くことに なったので、その話はおじゃんになりました。もう集まらない、っていうのは小岩くんも 不破くんも知ってるよ。  だけど、僕は、杉原くんは行くんじゃないかな、って思います。  カンでしかない話に付き合わせるのはダメだって判ってるんだけど、水野くん以外にこ んな手紙を送って怒られない(かもしれない)人が思い浮かばなくて……。本当にごめん なさい。  もしその日時間があるようだったら、○×駅の南口に一番近いフットサル場に行ってみ てくれませんか? あの、できたら、郭くんを連れて。  杉原くんと郭くんって、小さい頃同じユースにいたらしいんです。で、そのころから杉 原くんは郭くんに……なんて言ったらいいのかな、ライバル心? を持っていた、ってい つか教えてくれました。  でも、たぶん今は、一緒に戦いたい、って思ってるんじゃないかな、って……これは僕 の勝手な推測なんだけど、でも完璧に外れてはないと思います。だから、サッカーよりも っとテンポの早くて連携が必要なフットサルって、もしかしたら最適かもしれないな、と 思ったので……。  あの、ダメだったら、無理しないでください。僕の勝手なお願いで、水野くんに迷惑か けてるって判ってるから……。本当にごめんなさい。  もし、杉原くんに会えたら、お誕生日おめでとう、って伝えてくれると嬉しいです。 ※杉原くんは低血圧だといいな、とか……ごめんなさい。  そして、遅刻すみませんでした!