珍しいこともあるものだ。  ――自分が、こんなに驚くなんて。 太陽が、地平線へ叫びながら潜っていったけれど、依然として空は紅く染め抜かれたま まだった。徐々に首を反らすと、次第にその紅は光のスペクトルを正しく辿って、最終的 に回れ右をした須釜の目には群青と紺色の狭間が映る。 「なーにやってんだ、スガ」  突然背中を叩かれた。いや、はたかれた、と言ったほうが今の場合適切かもしれない。  練習終了のホイッスルが長い余韻を残していく。今日の練習も、いつもと同じように終 わっていった。ああ、ソックスが泥に濡れている。 「ああ、ケースケくん」 「どうしたんだよ、そんなに疲れるメニューでもなかっただろ?」  ええ、と軽く頷いて、挨拶のためにセンターサークルに集合する。いつもなら、笛が鳴 れば自然と走っていく須釜を、かの山口圭介が不審に思わない訳もなかった。 「まぁ、たまには僕だってぼんやりする事もあります」 「ということで誤魔化されてくれませんか、まで言えよな」  そう言って、笑いながら一足先に走っていく背を、目を眇めて追った。  どうしようもなく、センターサークルが遠かった。 今は、U―17の予備選抜とでもいうのだろうか、とにかくそんな面子での合宿中だ。 今日、八月二十七日から始まる三泊四日。  この夏休みが終わろうというときの召集だから、きちんとそれまでに夏休みの宿題を終 わらせて来い、との西園寺監督自らのありがたーい忠告を頂いたにも関わらず、もちろん 合宿前日に慌てだし、結局この合宿の夜に片付けねばならない連中もいるわけで。  おかげで、風呂に入って、夕飯食べて、さぁ寝るも遊ぶも君次第、となった瞬間、全員 駆り出される羽目になった。  広いラウンジの一角を占拠して、各々の宿題を広げる。むしろ、宿題は忘れていないけ れど、少し判らない問題を教えて欲しい、という意図の人間の方が多かった。特に、今年 中学三年の連中が多いだけに、教える側にも熱が入る。  こんなところに召集されるレベルなら、高校側から入学を提案してくることもままある 話だが、それでも万一のために勉強はしておかなければならない。勉強が出来る、という ことは、それだけ選択肢が増えることを意味するからだ。  これは、全員を呼んだ椎名の正解だったな、と須釜は手に持ったシャーペンを見つめな がら思う。判らない科目など人それぞれだし、例え自分の好きな科目でも、どうしても理 解しきれていない範囲は教えられない。  若菜へ、とりあえず因数分解の基礎を叩き込んでみたが、果たしてできるようになるの かどうか。そんなところまでは与り知らぬところだなぁ、と思いつつ、少し離れたテーブ ルのほうに置いてあるウーロン茶に手を伸ばす。 「須釜ー、俺にも注いでよ」  その声に肩をすくめて笑えば、自動的に肯定したことになると判っている。声を掛けて きたのは、皆の輪から抜け出してこちらへ歩いてくる、赤みの混じった黒髪。ちなみに、 身長についてはコメントを控える。 「はい、どうぞ。椎名くんは何を教えてたんですか?」 「んー、数学と英語。っていうか、あいつらダメだね、特に数学。壊滅的すぎる」  お得意の毒舌をサラッと振り撒いて、須釜から紙コップを受け取った。半分くらいを一 気に飲み干して、ふうっ、と短い息をつく。その動作に合わせて、長めの髪がふわふわ揺 れた。 「そうですねぇ」  そんな毒舌に、サラリとした応酬を返す。あれ、同意しちゃうんだ? と椎名の目があ る種の輝きを持って須釜を仰いだ。 「なに、須釜も数学教えてたの」 「ええ、若菜くんに」 「あー……、心中察するよ」  いいえ、と振れ幅も小さく首を振る。飲み干して空になった紙コップは、今や須釜の指 で弄ばれるだけになっていた。底に付いた小さな水滴が、人差し指を濡らす。 「そんなに飲み込みは悪くありませんでしたよ。ただ、応用まで利くかどうか」 「そんなん知ったこっちゃないね! 第一、基礎さえできてりゃ、中学の数学なんてどう にでもなるよ」  椎名が言うと、その言葉は確かに現実なのだと錯覚しそうになる。しかし、実際そんな にすらすら問題が解けるようになるわけでもないのだ、残念ながら。  などと、言ったところで彼の判断基準にはそぐわないだろうから黙っていたが。 「そういえばさ」  苦笑していた須釜の耳に、そんな言葉が届いた。紙コップをペコペコへこませながら、 椎名は唐突に口を開く。 「須釜、お前今日誕生日だよね?」 「は、い?」  話題が唐突だったことに驚いたのではない。いったいなぜそれを、椎名が知っているの だろうか。今までのらりくらりと誤魔化し続けて、恐らく山口にさえ知られていないはず なのに。 「選手の登録データ」 「え、っと、」 「この情報の出所だよ。それが気になってるんだろ?」  ようやく、思考回路が現実に追いついてきた。つまり、西園寺監督経由で誕生日を知っ た、ということでいいのだろう。そういえば、監督とこの人は従姉弟だったか。 「で? まさか、公式書類に嘘なんか書いてないよね?」 「書いている、と言ったらどうするんです?」  ありえないよ、と椎名はからからと笑った。それはそうだ、どんなに偽ったところで、 結局戸籍まで遡られてしまえば、人の身元などあっけなく割れる。おまけに、ここはいず れ国の代表が集まるU−17。そんな不正が許されるわけもない。 「そんなことを言うなら、誕生日は本当だね」 「ええ、もちろ――」  その次の瞬間、心底、頷いたりしなければよかった、と後悔した。 「ねぇ、ちょっと! 今日、須釜誕生日なんだってさ!」  須釜の言葉を最後まで聞かずに、あろうことか椎名は勉強に励んでいる全員に向かって そんな一言を言い放ったのだった。  瞬間、 「うっそ、マジで?」 「何で言ってくんなかったの〜」 「ちょっと椎名! 折角この問題理解してもらえそうだったのに……」 「え、なにも用意してないんだけど!」 「持ち込んだお菓子ならあるぜ!」  等々、まるで爆竹を放り込んだような騒ぎになった。一部の苦情は聞かなかったことに する。  当の須釜は、非難の視線をその小柄な横顔に灼き付ける。すると、判ってるよ、とばか りに椎名も須釜を向いた。 「息抜き! ……っていうか、どうせもうほとんど進んでなかったんだよ、どいつもこい つも煮詰まっちゃってさ」  たかだか夏休みの宿題でそこまで頭を悩ますってのはどういうことだろうね、と自信満 々にのたまったのは、最後の理性で聞き流した。 「あのさ、ばらされたくない、ってのは判ってたけど。そういう誕生日みたいなのはね、 思いっきり騒ぐのが正しい過ごし方だよ」  堂々と言い切られると、もう反論する気も文句を言う気も削がれてしまう。ふつふつと 沸騰しかけている脳みそをどうにかなだめて、須釜は大人の対応を取った。 「……判りました。今日だけですよ、もう二度とダシには使わないで下さいね」  判ってるって、といたずら小僧の顔でにぃっと笑うと、有無を言わせず須釜の手をぐい ぐい引っ張っていく。ああ、椎名に惚れている人間は、きっとこんなところに惹かれてい るのだろうな、と一応思ったりはしたけれど。  と、その時。 「あ、そういや鳴海!」  突然、椎名とは別の意味でよく通る声が、特定の人物の名前を呼んだ。けれど、その声 は明らかにその人だけに向けたのではなくて、周りに聞かせるために発された声量を持っ ていた。その意図を汲み取った人たちは、一斉に意識をそちらへ向ける。 「なんだよ」 「あのさ、俺、中二の夏にお前らと当たったの覚えてるか?」 「ああ、水野のところなー。負かしたけど」 「……。……でさ、その時に、相手校ってことで選手データ見たんだけど。――お前、誕 生日明後日だろ」  その場がもう一度凍った。そして、二度目の爆発が起こる。 「お前もか! つか、何で言わねぇんだよ!」 「こりゃ、もう誰かの部屋行ってお菓子パーティーだな!」 「二人もいるんじゃ、しょうがねぇよなー」  などと言いつつ、それこそ申し合わせたかのように、てきぱきと散乱していた宿題やシ ャーペン類をまとめて、泊まる部屋のある方へとぞろぞろ移動し始めた。みんな、どうし てこういうときの行動は素早いのだろうか。  須釜は、今日の主役に抜擢されたもう一人を気の毒に思いつつも、深々とため息をつい た。どうせ、椎名には聞かれないくらいの距離があるからいいだろう。 「迷惑そうやなー」  と、油断したところで降り掛かってきた声に、一瞬返答するのを忘れたが、相手はそん なことなどお構いなしに喋り出した。 「判るで、須釜の気持ち。あれやろ、あんさん家でものすごう祝われとるタイプやろ」 「……はい?」 「あれ、違うた? それで、もうそないなことしてくれんでもええのに、やってくれるも んやからとりあえず祝われる。けど、みんなは純粋に祝ってくれとるのに、正直自分とし ては素直に楽しめんで、それで自己嫌悪に陥ったりしとるのとちがう?」  目が点になる、という古い諺を、まさか自分が体感することになるとは思わなかった。 誕生日がくるたび、無意識に空を見上げるなどという柄にもない行動をとるほど憂鬱な理 由を、出会って日も浅い人に言い当てられるとは。 「藤村くん、……あの、それ体験談でしょう?」  大層驚いた様子から、もうこれは当たったな、と藤村は目を細めて笑う。肯定はしない までも、否定すらしないなら、それはアタリなのだ。 「いいや? 俺はちょっと色んな所が逆やから、体験談、とは言えんな。……どや、アタ リハズレくらいは教えてぇな」 「……もう判ってる顔の人にわざわざ言ったりしませんよ」  あら、バレとったか。と悪びれずに小さく笑う藤村を、どうしたって憎む気にはなれな かった。それどころかむしろ、感謝の念すら湧いてくる。 「……けどな、」  ありがとう、と口を開こうとした瞬間、その先を殺ぐように藤村の口が動く。……もし かして、自分が何を言おうとしたか知っているんじゃないか、と疑うほど、完璧なタイミ ングだった。  そんな彼は、少しだけ、須釜の前を歩きだす。須釜からは、顔が見えなくなった。 「そんなんで悩んどったんがアホらしゅうなるくらい、嬉しいもんやで」 「……何がです?」 「コレ」  メンバーが吸い込まれていった扉を、藤村が勢いよく開けた。 「おっそーい!」 「主役の自覚持てよー」 「飲み物足んねぇ、誰か買ってこい!」  な? と振り向いた藤村は、なぜか得意そうに笑っている。  家族や、友人に祝われるそれらどれとも違う雰囲気。祝ってくれるのは判るけれど、明 らかに途中から自分のことなど忘れ去られるような、そんな予感。  須釜は、口の端で、隠しきれない笑いを零す。 「ねえ、やっぱり体験談ですよね、さっきの」 「……ええわ、そういうことにしといたる」  素直じゃないですね、と言ったら、それが俺やから、と認められてしまった。 ※若菜は文系だと信じて疑いません。須釜は正直どちらも想像できたので、今回は理系に  回ってもらいました(笑)  ちなみに、U−17云々はほぼ捏造です。一応この年代で世界大会があって、その編成  が15歳〜17歳だそうなので、その選抜の前振り、みたいなのがあってもいいよな、  と……。  で、本誌に描かれてるのはU−19ですが、その前なので圭介くんとか居てもおかしく  ないと思ったので、ご登場願いました。