八月に入った。  毎日、この穏やかな波しか立たない瀬戸内海では、風は凪いでうんともすんとも言わな いくせに湿気だけはやたらと酷く、結果としてかなり暑い。  この地に来てからまだ四ヶ月目の郭は、その暑さに若干バテそうになっていた。しかし そこは腐ってもプロサッカー選手、自己管理には気をつけている。また、同じサンフレッ チェで、U−19でも顔を合わせている城光に色々と暑さ対策も教えてもらったし、夏は これからが本番だけれど、何とかなりそうな気もしている。  八月四日の夜、その日の練習を終えて帰宅した郭は、かなり疲れていた。暑さは容赦な く体力と精神力を奪っていく。これなら、中学生の時に体験した、雪の降るような寒い中 での試合(又は練習)のほうがまだマシかもしれない、と取り留めもないことをつらつら 考えた。いや、あれはあれで辛かったけれど。  明日はオフだ。いっそのことこのまま寝てしまいたいくらいだったが、汗にまみれた自 分の体を見下ろして、それはできないな、と嘆息する。一度は沈みかけた意識を無理やり 引っ張り起こして、郭はとりあえずシャワーを浴びに洗面所へ足を向けた。  その際、携帯を充電機へ繋いで行くのは、彼の習慣ともいえる。 「――ふー……っ」  風呂上がりに冷えたミネラルウォーターをペットボトルから飲み干した。シャワーの熱 がまだ残る体の中を、冷たい液体が染み渡っていく。代わりに、肺にたまった空気が口か ら溢れ出た。  ふ、と目をやると、充電中の携帯電話が光っている。充電中であることを示すオレンジ 色と交互に点滅するマリンブルーは、 「メールだっけ?」  誰からかメールを受信したときの色だった。  ペットボトルを冷蔵庫のポケットに放り込むと、まだ先端から滴が落ちる髪をがしがし 掻き混ぜながら携帯を手に取る。充電器はもちろん付けっ放しだ。 「え、……城光?」  受信BOXを、危なげない手つきで開く。新着メールは一番上にその存在を主張してい た。  差出人は、郭より一年早くこのJリーグの世界へ飛び出した、城光与志忠だ。しかし、 彼がメールを寄越すのはよくて月に一回ほどで(チームの練習でほぼ毎日のように顔を合 わせているのだから当然だが)、その上、これまでにくれたメールの内容といったら、時 間が空いたからご飯でもどうかとか、先輩に誘われたんだけどお前も来いとか。ちなみに 後者の意味合いは、「お前も一緒に道連れになれ」である。もちろん、郭はその意図を的 確に読んで丁重にお断りした。  しかし今、郭が驚いているのは、その滅多にメールを寄越さない城光からだ、というこ とだけではない。その内容も、今までとは違っていた。 「六日の朝、七時四十五分に、広島県庁前……時間厳守?」  こんな呼び出しは受けたことがなかった。けれど。 「――」  この日付と時間には、思い当たる節がある。  そうだ、自分はまだこの広島に来てから一年も経っていない。当然、この地で、その日 を迎えるのも初めてになるのだ。  郭は、迷うことなく「了解」と返信した。  その朝は、嫌になるほど暑かった。 「大体、毎年こうなんやと」  この日は、朝から暑くて、とても晴れていて、青空で、日差しが眩しくて、眩暈がする ほど素敵な日になる。 「はよーさん、時間どおりたい。さすが郭」 「まあ、昨日もし練習あったら起きてこれたか保証はないけどね……。あっち、行くんで しょ?」  おう、と頷いて、大きい図体をものともせずに歩き始めた。なんとなく隣に並びづらい ものがあったけれど、一応隣を歩くように心がける。まさか後ろを付いて歩くだなんて間 違ってもしたくない。 「にしても、どうして県庁前なわけ? どうせこれから平和記念公園行くんでしょ?」 「んー、今日は人ば大勢やけん、会えんやったら困る」 「そうだね。城光が正解かも」  歩きながら、自分も去年、チームの先輩に連れて行ってもらったのだと教えてくれた。 連れて行かれた、とは言わないところが城光らしい。  角を曲がると、本来なら見えないはずの青空が、鉄骨と瓦礫の隙間から目に飛び込んで くる。原爆ドームが、そこにあった。 「まだ来たこつなかやろ、忙しゅうしとったけんな」 「うん。写真や映像でなら何回も見たし、通り過ぎるくらいなら何度もあるけど。ちゃん と来たのは、初めてだね」  思えば、もったいないことをしていたものだ、と思う。こんなに近くにこんなものがあ るのに、今まで見に行こうとはしていなかった。まだ慣れない一人暮らしのせいにしてみ ても、もう四ヶ月になるのなら。 「あーもう、暗か! そげん顔ばしとったら、亡くなってしもうた人たちも浮かばれんぞ」 「……そうだね」 「って、俺も先輩に去年どつかれたっちゃ」 「なんだ、受け売り?」  笑う。こうやってくだらないことで笑いあえる、たったそれだけの日常が、この世でど れだけの価値を持つのか、一言一言刻むように。  ドームを通り過ぎて公園内に入ると、そこには千羽鶴を両手に抱えた子供や、裏手にあ る数々の慰霊碑に手を合わせる人たちで一杯だった。ちらりと腕時計に目をやると、もう 既に八時を回っている。 「手ぇ合わす場所は、どげんすっと?」 「あ、あそこがいいな。千羽鶴を折りながら亡くなった人の像……だよね」 「ああ、佐々木禎子さんたい」  東京にいる頃、本好きの郭は結構頻繁に図書館を利用していた。そして、同じ夏のころ に、戦争に関する図書を集めたコーナーを設けていたことがあった。その中の、彼女の被 爆から亡くなるまでを纏めた本を手に取ったことがある。  二人は無言でその見上げるほど高い像の側まで歩いた。 『――ご起立願います。黙祷――』  式典の行われている方から、スピーカーを通った声が風に乗って届く。一分間、鐘が幾 度も撞かれ続けて、辺り一帯を包む。  午前八時十五分。  一瞬にして何万人、そして後々十何万人もの命を、この地球上から拭い去ったあの爆弾 が、五十八年前のたった今、炸裂した。 「なあ、郭」 「何?」  広島市長の宣言を遠くに聞きながら、原爆の子の像をとりかこむように捧げられた千羽 鶴を見歩く。 「……韓国に従兄弟ばおる、て」 「ああ、うん。……確かに、あの半島に住んでる人たちは色んな国に酷い目に遭わされて きたけど、」  郭は手を伸ばした。伸ばした先には、小さな子が折ったのか少し不格好で、けれどとて も一生懸命に折ったのであろう、ぬくもりのある鶴がいた。 「でも、ここで沢山の人が逝ってしまったのは確かだから」  手を合わせるのに抵抗はないよ、と微笑む。頷いて、城光も、違う鶴にそっと触れた。  千羽を超えてなお祈りを届けられなかった彼女の鶴が、今や何十万羽にもなって、本当 に平和になった空に羽ばたける時を待っている。 ※2003年08月06日、のことです。郭がサンフレッチェに入った年だから。この日も一日中  晴れだったそうです(調べた)ただ、オフとかの日程は今年のものを参照しました。  ギリギリですが、今日書けてよかったです。あとは日記にいろいろ書くかもしれません。 →書きました。(←リンクです)