渋沢、と懐かしい声に呼ばれた気がした。  気がした、といっても、渋沢がこの声を聞き間違える可能性などもはやないに等しい。 どれほどの間、同じ空間にいたと思うのか。  そして今、渋沢の鼓膜とその情報を伝えられた彼の脳は、「この声はあの人のものです よ」、と正確にはじき出している。聞き間違いは、ない。  ということは、とどのつまり、彼の名を呼ぶ声の主は、 「三上……」  この人しかいないということなのである。 「で、こんな朝早くにいったいどうしたんだ?」 「来れたから。ま、渡りに船、って感じのタイミングだったんだよ」  心底、あー会話に驚きとかがねぇ、と言わんばかりの表情で、シニカルに笑う。一年ほ ど会っていなかったのだけれど、驚く必要さえないほど、全く記憶のままだった。中学時 代よりだいぶ社会と馴染んだ三上亮がそこにいる。 「つか、お前この間の試合終わった後、サポーターから潰されそうなくらいプレゼント貰 ってたくせに」 「ああ、それは今日が俺の誕生日だからだろう?」  29日は試合のない完全オフだから、この日曜に行われた浦和レッズとの試合後にたく さんの祝福をもらった。ファンの人たちには、本当に良くしてもらっているよ、と口元を ほころばせる彼は、そのファンから降ってくる「おめでとう」の言葉が決して当たり前に 存在するものではないと知っている。 「そ。で、今日がその29日だ」 「……すまん、お前の意図がいまだに読めないんだが」 「……まあ、そう言うだろうな、とは思ってたけど」  自宅近くをぐるっと回るロードから帰ったところを捕まえた。あの濃密な中学・高校時 代の習慣で、朝早くに目が覚めるのだろう。今でも、激しい運動量を誇るサッカー選手と いう職業に就いていれば尚更のことだ。  渋沢は、まあとりあえず、と三上を自宅へ招き入れた。そこそこ値が張るマンション住 まいだが、彼の稼ぎを思えば何ということもないはずだ。  三上も、何も言わずに渋沢の後をついていく。いつまでも立ち話をしているような間柄 ではないし、第一ずっとその場にいては不審がられる。それに、例え用事がなくても渋沢 ならお茶くらいは飲んでいけ、と言うだろう。  大体にして、今の時刻は午前八時。朝ご飯すらまだなのだ、互いに。 「なぁ、腹減った。飯食わせろよ」 「たぶん何か冷蔵庫に入ってたと思う。あ、パンはあるぞ。昨日買った」  三上は、そんな会話を交わしながら、思わず噴き出しそうになった。  ロードワークの名残をどことなく残した渋沢は、三上くらいずっと近くにいる人間にし か判らないくらい微かに、足取りが軽かった。  三上がここを訪れるのは何回目だろうか。もう本人も家主も覚えてはいない、そのくら い踏み入っている。 「あ、スーツここに掛けとけよ」 「もう使わせてもらってる。サンキュな」  つまり、三上はここでご飯を食べたあと会社へ行くようで、そのまま都心の交差点に紛 れ込んでも何ら違和感ないスーツ姿だった。 「けど三上。大丈夫なのか、ここ茨城だぞ? 今から会社行っても、始業には間に合わな いんじゃないか?」  軽くシャワーを浴びた渋沢が、キッチンを物色していた三上に向かって至極もっともな 疑問を投げかける。渋沢の所属する鹿島アントラーズの本拠地が茨城であることくらい、 サッカーをしていた者なら大抵知っている。  それなのに、今、三上はここにいるのだ。 「あー、昨日まで出張だったんだよ。で、今日は報告しに戻るだけだから」  細かいところは任意で省いたような説明だったが、まあ大体のことは判ったので良しと しよう。つまり、そこまで長居はできないけれど、少なくとも始業時間に必ずいなければ ならないわけでもないらしい。渋沢はようやっと胸を撫で下ろした。 「勝手に台所使ったぞー」  そういえば先程から、じゅうじゅうとフライパンで何かが跳ねる音がしていた。食卓へ 皿を持って現れた三上が何を作ってきたのかと身を乗り出す。 「お、ハムエッグか」 「嫌いじゃなかっただろ?」 「俺はあまり好き嫌いないぞ? 藤代じゃあるまいし」  三上といるからか、自然に口を突いて出た藤代の名前に二人で笑う。なんだか、高校時 代に戻ったような気さえした。 「そうだな。まあ、あいつと比べるのも間違ってる気がするけど」 「確かに」  外では、既に顔を見せた太陽がいつものように地面を熱し始めている。七月の終わり、 気温はどんどん上がっていくばかりだ。都会では滅多に聞かない、うるさく叫ぶ蝉の声も 遠く聞こえてくる。 「あ、そういえば、お前の来訪の意味をいい加減教えてくれないか」  三上のハムエッグを、トーストに乗せながら渋沢は訊いた。  訊かれた三上は、口に含んでいたコーヒーを苦そうな顔で飲み込む(実際にコーヒーが 苦いわけではない)と、面倒そうに口を開く。 「……だーかーら。29日はお前の誕生日で、今日がその29日だろ? で、俺はちょう ど出張でこっちに来る用事があって、急いで帰らなくてもよかったんだ」 「――あ、ああ、そうか」  まさか、彼がそんな行動に出るとは思わなかったので、渋沢の脳内はその答えをなかな か導き出さなかった。だって、出会って数年はともかく、道が分かたれてからは毎年メー ルで済ませていたのだから。  出会い頭に「渡りに船、って感じのタイミングだった」と言っていたのはそういう意味 合いだったのだ。  渋沢は、一口トーストにかじりつくと、にっこり笑ってこう告げた。 「だとすると、俺はまだ受け取るべき言葉を受け取っていない気がするな、三上」  三上は口の中でぐ、と詰まったような唸り声をあげた。  けれど結局、この期に及んであえて言わせるのか、と多少げんなりした風な態度だった けれど。 「……25歳おめでとう」  その言葉は、ファンの一言よりずっと深く渋沢へ根付く。 ※三上は高校でサッカー辞めるんだろうな、とか思っています。趣味で続ける感じで、職  業としては普通のサラリーマンかと。