あのときの、あいつの目は、嘘なんか吐いていなかった。  目まで誤魔化せるほど、あいつは器用なやつじゃない、って、それは一番彼がわかって いることだったのに。  ぼうっとすることも多くなった。目の焦点を合わせずに、ゆらゆら視線を泳がせる。そ うすることが思ったより楽だと気づいたのはいつだっただろう。いつもずっと気を張って いなければいけない、だなんてどこかで思い込んでいた数年前とは違う。 「藤村、」  だから、時々こんな風に突然声を掛けられると、心中驚くことが増えた。 「なんや、姫さんか」 「なんだ、とはご挨拶だな」  けれど、その驚きを表情に出したりはしない。というか、思わず咄嗟に隠してしまう。 それは、もう小さい頃からの癖のようなもので、おいそれと簡単に直る類のものではなか った。  少し悲しくも思うけれど、そうでもしないと、あの古都で生きていくこともできなかっ ただろう。だから、微塵も後悔していない。  それより、自分より悲しんでいたあいつの事のほうが。 「まあまあ。それよりどないしたん? 黒川くんやったら向こうにおるけど」 「あのね。僕だっていつも柾輝と一緒に居るわけじゃないよ? まったく、藤村も判って るのにわざわざ言うんだから」  はあ、と手のひらを上へ向けて、肩をすくめたその人を、藤村も苦笑いで見返した。  お互い言わなくても判っていることを明文化したがるのは椎名の癖のようなものだ。そ もそも、ウリがマシンガントークというところからして、喋ることが好きなのだからもう これは仕方がないと諦めるべきなのか。 「そやけど、珍しいことに変わりないで。姫さんが俺に話しかけてくるなんてそないにあ ることと違うし」  それはむしろ藤村に限ったことではない。椎名が自発的に話しかけるのは、ある程度決 まった人間相手にしか行われないのだ。 「そりゃあ、さっきから藤村が鬱陶しい視線を放ってるからに決まってるだろ」 「鬱陶しい視線?」  そんなものを放っていた覚えはないのだが。ただ、ぼうっと、皆の居るロビーを眺めて いただけなのに。  しかし椎名は、持っていたコップをぐいっと煽って空にすると、 「お前が気づいてないなんて重症だねー」  と歌うようにからかって、ふいっとテーブルの上へ興味をずらした。 「お、姫さん、飲み物やったら俺にもくれ」 「まったく……、俺に堂々と物頼むヤツもそんなに居ないよ」 「まあまあ」  アイスコーヒーのペットボトルをひょいと掲げて、それをちょうどよい角度に傾ける。 自分の分を注ぎ終わってもそのままの角度で待っていてくれたので、藤村はそこへ自分の コップを滑り込ませた。 「おおきに、姫さん」 「別に? 心の広い俺なら当然でしょ?」  よう言うわ、と口の端で笑いながらコーヒーを口に含むと、冷蔵庫から出されてしばら く経って、気の抜けた味が広がった。冷たくも、ぬるくもない、ひどく不安定な温度が舌 を滑り落ちていく。 「で、お前の視線の話をしに来てやったんだけど」  椎名も同じようにコーヒーを飲みながら、するりと話題を元の軌道へ戻した。 「……無意識やってんけど。どないな視線?」 「だから、鬱陶しい視線だって」 「せやから、それはどないな意味の視線やって」  椎名はちょっと目を見開いて、そのあと、嫌な雰囲気の漂うにやりとした笑みを浮かべ た。思わず藤村は椅子ごと身を引く。 「なんやの、」 「言ってもいいわけ?」  そんなに離れてると大声で言わなきゃいけないんだけど、と更に嫌な笑みを深くして言 ってくる。仕方なく、藤村は元あった場所へ椅子を戻した。  そして、間を繋ぐためにもう一度コーヒーを飲もうと、コップの淵に唇を付けた瞬間。 「水野に構って欲しいっていう視線」  ぼそり、と耳元で囁かれた。 「……マジ?」  コーヒーのことも、今居るロビーの背景も、全部が眼中から吹き飛んだ。 「藤村に嘘ついて、俺のためになることなんか一つもないと思わない?」 「思う」  そして、どうにかポーカーフェイスを保っている彼を笑いに来たわけでもない。それは 藤村自身が一番よくわかっている。 「まあ、知ってる人間も知らない人間も大勢居るわけだし、気をつけるに越したことない だろ。多分、郭や杉原あたりは気づいたんじゃないの」  これはありがたい忠告なのだ。 「……嫌やなあ、絶対後でなんか言われるわ」 「お前がうかつなんだよ」  その通りなので口を閉じた。  原因は判っている。  大体固定化されてきたアンダーの面子に、新たな人員を加えて、今回の合宿は行われて いた。  そこにはもちろん、武蔵森のメンバーも呼ばれている。水野を加え、ますます強さを増 した武蔵森高校は、遠い関西の地でも時折名前を聞くようになった。  そして、昨日廊下ですれ違ったときに垣間見た、水野の楽しそうに談笑している顔が目 に焼きついて離れない。相手は恐らく藤代か渋沢かであったと思うが、それすら定かでは なくなるほどに。  楽しそうな、目だった。 「嫉妬もほどほどにしておけよ」 「んー。ま、向こうにも迷惑やしな」  途端、驚いた、と椎名の顔が言った。  お前が、迷惑とかそんなことを言うなんて。  ああ、どれだけ水野を大切に思っているのか判ってしまった。