「ねえ、水野」  声をかけられた本人の髪から、まだ冷たくなっていない雫がぽたりと落ちた。大体にし て、水野がジャージにTシャツ姿でまだ頭をがしがし拭いているときに、声を掛けるよう な人種ではないくせに。まったく、こちらまで調子が狂わされる。 「なんだよ」  先にシャワーを浴びていた郭が、寝転んでいたベッドからちらりと水野を見た。眠る気 はなかったようで、まだベッドカバーは掛かったままだ。ぱらぱらと、どうせ見てもいな かったサッカー雑誌をぱたりと閉じて、ゆっくり上半身を起こす。  どうして最初に声を掛けてきた側の人間が、こんなに鬱陶しそうなのかは皆目見当がつ かなかった。けれど水野も、その向かいにある自分のベッドへ腰を下ろした。  すぐに郭が話し始めるかと思いきや、数秒の沈黙が降りてくる。本当に、らしくないっ たらない。  はあ、と水野はため息をついた。 「あのさ、俺ドライヤー使いたいんだけど。話あるならその後でもいいか?」 「……ご自由に。悪かったね、まだ落ち着いてないのに声掛けたりして」  ああ、調子が狂う。  郭が自分から認めたけれど、人に話があるときは、その相手が落ち着いてから切り出す ような人なのだ。それは、浅いと言われるかもしれないが、この数ヶ月の付き合いでよく 判っている。  同じミッドフィルダーで、余裕があるときの思考回路が似通っていて。初めは、背番号 10番を巡って色々思惑が交錯していたけれど、それもきっと今日で終わりだ。  雪のフィールドと、真っ赤な観客席の、韓国戦。 「で? 何か言いたいことでもあるんだろ」 「ほんと、元気になったよね。水野の方こそ、まず俺に言うことあるんじゃないの?」 「……フリーキックのときに言っただろ」  忘れたわけではない。たった三時間と少しのゲームの間で、驚くほど自分は変わったと 思う。  信頼すること、されること、味方の動きを読むこと、それを感じて動くこと、周りを動 かすこと、ゲームメイク、――司令塔の役割。  それらを、今日の試合の中で、一番初めに体現させてくれたのは、他でもない、目の前 に座る男だった。  水野を叱って、それでも信じて、水野のすることを読んで、そのとおりに動いた。 「まあ、言われた、ということにしておいてもいいけどね。それで水野の気が済むなら」  前提からして、郭に勝とうとするほうが間違っている。水野のプライドの高さを読んで 、その上でこんな風にけしかけているのだから。まあ、水野相手ならそこまで難しいこと でもないけれど。  案の定、ぐっと顎を引いてしばらく考えていたが、 「信頼してくれて、……ありがとう」  と告げてきた。むしろ呟いたと言ったほうがいいかもしれないが。  郭はというと、目だけで綺麗に笑ってみせた。それが気に入らなかったのか、水野はせ めてもの反抗を試みる。 「っていうか、お前こそ、チームのためだ、とか言ってなかったっけ」 「それはそうだけど。ただ、チームのために動いてたら、結果として水野を助けることに なったんだよ。お礼くらい言われてもいいんじゃない?」 「もう言った」 「はいはい」  ペットボトルの水をぐいっと煽る。喉、食道、胃、と冷たいものが通り過ぎていくのが 判った。風呂上がりの体に染み込んでいく気がする。 「郭もいるか?」 「ああ、じゃあ貰う」  黒髪の、まだ完璧に乾いていない艶が、毛束と共にゆらゆら揺れている。  そもそも、先に水野を呼び止めたのは郭なのだから、向こうにも言いたいことがあるの だろう。大体の予想はついてきたものの、それは郭が言うことだろうと思い直し、水野は ただ黙っていた。 「……俺も、お礼を言わなきゃいけないと思って」  ペットボトルのふたを閉めると同時に、郭はその口を開く。もてあそぶように振ってい るそれから、水が跳ねる音が聞こえた。 「へえ。……なんに対して?」 「もう、本当に余裕出てくるとすぐ調子に乗るね。ただでさえこっちは慣れないことをし ようとしてるのに」 「いや、お前があんまり余裕ないのを見るのは新鮮だから」  いつもと立場が逆転しているのを、面白いと思わないわけがない。普段なら、水野のほ うが余裕をなくして、郭は仕方なくそれのフォローに回っている。しかし、今は違う。め ったに人に助けられたりしないこの人が、今日は確かに救われたのだ。 「フリーキックのとき、……助かったよ。ありがとう」  水野はふっと頬の力を抜くと、郭の手からペットボトルを取り戻した。 「ああ。まあ、俺はなんて言われてるのか判らなかったけど」 「……判らなくていいよ、どうせくだらないことだし」  背を向けて、サッカー雑誌に戻ろうとする郭を、水野は止めなかった。けれど、視線を ふいと外される前の、郭の瞳はよく見えた。 「ばか、くだらないことでお前が動揺するわけ?」 「するんじゃない? ……いいんだよ、何か吹っ切れた気がするしね」  でも、話せ、なんて言わないでよ。そこまで大人じゃないからさ。  そう言われた気がして、水野は口をつぐんだ。  けれどいつか、もっと成長した頃に、なんでもないことのように話してくれる予感があ って、だから水野は自分の手荷物を整理し始める振りをした。  今日の試合を、ずっと覚えている。  掴まれた胸倉と、励まされた右肩の温度も。