隣を歩く人間が、パーカーの中に顔を埋めようとして失敗した。 「うー寒っ」 「そうでもないだろ」  水野の言葉に、返ってくるシゲの視線は冷たい。 「そうでもあるて。これやから秋生まれは。ちゅーかもうほとんど冬やんな、お前の誕生 日」 「知ってたか? 実はあんまり関係ないんだぞ、それ」  シゲはつい、と視線を外すと、「知っとるわ」と口にした。  近頃、日が落ちるのがやたらと早い。そんなことで、地球の地軸が曲がっていることを 改めて認識する。どうして真っ直ぐに回っていないのか、なんて不毛な考えは起こさない けれど、でももし曲がっていなかったら、きっと日本に四季がない。それは、大分つまら ないことのように思う。  例えば、こうやって隣を歩くときの、ふと落ちてきた沈黙を埋める「寒い」とか「暑い 」とか、そういう言葉が紡げないのだ。隣に居ることで、同じ空気の中に居るから共有で きる体感温度もなく。会話と会話の間を繋ぐ、優しい、夜明け前のような呟きたち。 「そうだな。寒い、かもな」  水野がそう言うと、 「なに? さっき寒ない言うてたんタツボンやん」  当たり前に、いぶかしむ声が聞こえた。良いだろ、別に。とだけ、付け足しのように言 う。  中学三年生の秋だなんて、高校だけを見据えていろ、とかその類のことを言われつづけ るだけだ。全く、つまらないしくだらない。高井が、森長に教えてもらいながら必死で勉 強しているのを見るのは別だけれど。目標のある人間が、それに向かって頑張っている、 というのは凄くいいことだと思うし、影ながら応援する(面と向かって応援したところで 、高井のことだから「お前は勉強できるくせにさっさとスポーツ推薦決めやがって」とか なんとか言われるのは目に見えている)。そうではなくて、漠然と進む道を決められて歩 まされている人間を見るのが嫌なのだ。問題集の問題を解く手は淀みないのに、そのくせ 目が光を失っていて、見るに耐えない。 「帰り道の影、大分伸びたなぁ」 「……そうだな」 「あ、そや。今日お前のうち寄ってええ?」  数日に一回、お互いの家へ行き来するようになった。河川敷で少しだけボールを蹴って から。まあ、これは大体毎日していることだけれど。 「ああ、いいよ」  風祭がドイツへ行ってから、もう数ヶ月経つ。時間は飛ぶように過ぎて、いつのまにか 、木枯らしの予備軍のような風まで吹くようになった。その風が吹く、風祭の姿が焼きつ く河川敷で、祈るようにボールを蹴る。シゲの気持ちは知らないまま。  でも、それに付き合っているという事実は変わらないから。  風呂から上がって、自分の部屋に行ったら、あろうことか金髪の男は窓を全開にしてい た。 「ちょっと、シゲ! 冷えるだろ」 「ええやん、夕涼みや」 「季節が違う、バカ。いいから閉めろ」  汗をかくまでボールを追って、そのあと片方の家に行くのならシャワーを借りる。それ すらも、当たり前になった。いつまでか決まっている、そしてお互いそれを判っている、 ”当たり前”。 「なんや、勿体無い。知らんやろけど、今日新月やねんぞ」 「は? 何が勿体無いんだよ。満月だって言うならわかるけど」  こいこい、とシゲが手招きした。僅かに濡れたままの髪をタオルでかき混ぜながら、シ ゲの隣に立った。シゲの体からも、同じボディーソープのにおいが立ち上っているのに、 妙な感慨すら覚える。中学三年に上がる春までは、同じ状況でも絶対思わないだろうこと を、今思っている。  パチ、と音がして、部屋の電気が消えた。視界が一瞬、突然訪れた暗闇に眩む。 「うわ、なに、」 「ホンマは窓開けたほうがよう見えるんやけど」  シゲは右手の人差し指で、端のほうに緑とも水色ともつかない色を残している空を指し た。 「あ、」  月の残酷なほど輝く夜には、まずお目にかかれないだろう、たくさんの小さな光が瞬い ていた。夜空に撒き散らされた金平糖。 「こんなに凄いんだったら、開けようか」 「ええの? 寒いんちゃう?」 「いいよ、こうすれば」  窓とサッシの奏でる、からからという音を聞きながら、水野はおもむろにシゲの二本の 腕で自分の体を包ませた。シゲに後ろから抱きしめられたような格好になる。冷たい空気 に撫でられて、自然と水野の体が震えた。 「なに、……悲しいんか」  どうして、そんな風にするりと心の奥にうまく紛れ込んでいることを掬ってしまうのだ ろう。 「――いや? あと数ヶ月でお前と離れることについてだったら、微塵も悲しがってない から安心しろ」  これは、事実だ。水野は武蔵森へ、シゲは山白高校へ。もう納得もしたし、後悔もして いない。 「ええー、それはそれでシゲちゃんショックー」  黙れ、の意味で思い切りシゲの足の甲を踏みつける。 「っ痛ー……。司令塔さん、黄金の足の使いどころ間違えとるで」 「今はこれが一番正しいだろ」  ふむ、とわざとらしい溜め息をついて、シゲはその手で窓を閉めた。そして、その後ろ にあるベッドに、水野ごと引きずり込む。 「なにすんだよ、」  ごそごそ動いて、シゲは水野と向かい合う。 「なぁ。だったら、なにがそんなに悲しいん?」 「……」  心の奥にある、ほんとうのことを。  星の光は部屋の中までは入ってこない。おかげで、シゲの表情は窺い知ることが出来な かった。裏を返せば、シゲにも水野の顔は見えないわけだ。 「……この三年間、色んなことがあって、これからももっと色々あるんだろうけど」 「うん」 「多分、それでも、お前とずっと一緒に居るんだろうな、って。それが、悲しい」  ぱた、とシゲのほうへ横倒していた体を仰向けにする。掛け布団が少しだけへこんで、 文句をいった。 「もう、お前以上には会えないんだろうな。そう思いながら生きていくのは、」 「せやったら、会わんかったらよかったとか言う?」  シゲが、”もしも”の話をするなんて。驚いたけれど、ああ、こいつも変わったんだな 、と思う。いい方に変わったのなら、これからも変わっていける。出来れば、一緒に。 「言わない。めちゃくちゃだけど、でもそんなお前に会えてよかったよ」 「さよか」  気配が、ゆっくり沈んでいく。きっと今、シゲは目を閉じたんだろう。 「そっちは?」 「あん?」 「……なんでもない」  シゲが水野をどう思っているか、なんて訊くだけ無駄だ。どうせ、いつものようにはぐ らかして、曖昧に笑って終わりなのだから。そんな期待をする女々しさに応えてくれたら 、逆にそれはシゲの着ぐるみを着た誰かかと思ってしまう。  それに、もう訊かなくても、多分判っている。 「……こら」  上半身を起こした影が、水野の薄い胸板をなぞった。窓を背にして、さらりと金の髪が 水野の両頬に下りてくる。まるで、金色の檻のよう。  こんな、野良猫のように自分のしたいようにする人間が、こうして水野を閉じ込めてい る。それだけが、唯一の答え。 「せえへんよ。今日は寺のほう戻らんと、和尚がうるさいねん」 「あ、そ」 「あー、ちょお残念やったやろ?」 「誰が」  また、部屋の電気をつけてしまえば、ここからはもう見えなくなる星たちを、今だけは 灯りを落として見つめていたいと願う。自分達だって、きっと六等星の星とそう変わらな い存在だけれど、でも、確かにそこに在る光だから。  夜の闇に、世界は閉ざされない。