「そういえば、なんかの世界大会でオリンピック候補決めるらしいね」 「うん。卓球か何かじゃなかった?」  おはようの挨拶はもう終わっている。  朝練に向かおうとして、正門で菊丸に捕まった。いつもぎりぎりに来る事が多い彼だけ れど、きっと今日は朝ご飯当番だったのではないだろうか。必然的に早起きをすることに なるので、結果として朝練も遅れにくくなるのだ。そして、自然の流れで、部室までの道 程を一緒に歩く。  話題にも出た。オリンピックイヤーには、今日と言う日がくっついてくる。  そんなふうに、不二周助の二月二十九日は始まった。  もちろん、朝起きた時に、母と姉の由美子からは祝われている。 「誕生日おめでとう、周助。朝ご飯、冷めないうちに食べてね」 「あーそっか、誕生日。ってことは、今日裕太帰ってくるのか。楽しみね」  洗面台の前からやっとリビングへ出てきた姉の第一声に、不二は苦笑を返す。 「うん、嬉しいよ。けど姉さん、」 「判ってるわよ。おめでと、周助」  グロスの乗った唇が、綺麗な半円を描いた。不二もにっこりと笑い返して、紅茶のカッ プを手に取った。自分の好きな銘柄を、基本に則って淹れられている。差し込む朝の光に 湯気が揺れる。 「しかし大きくなったものね。この間まではあんなに小さかったのに」 「あら、貴女だってそのくらいの頃があったのよ?」  気の向くまま、不二の髪を梳いている細い手が止まることはない。 「判ってる。周助のことよ」 「そうねぇ。中学校に入ったのがついこの間みたい」 「そこら辺にしておいて? 昔のこと、話し出すと長いんだから、母さん」  自分より年上のこの二人に、この手の話題を話させると長引くのは判っているので、適 当なところで不二は話題を途切れさせた。それすらもいつものこと。  他の大多数の人間にとって、今日は四年に一回のおまけのような日で、全くいつもと同 じように一日が始まって一日が終わるのだ。ただ、自分にとっては、誕生日であるという ことだけが違うけれど。 「というわけで、今日は裕太も帰るんだし、早めに戻ってらっしゃいね」  しっかりと家族に行動を把握されている末弟のことを、不二自身可愛く思っている。ち なみに、この時点で裕太が帰ってくるという連絡は一度もない。けれど、今日帰ってくる ことを疑いすらしていない。 「判ってるよ。じゃあ、いってきます」  白塗りの壁に、朝日が輝いている。  部室を開けると、ちょうど着替え終わった大石が出てくるところだった。鍵当番も担う 、この副部長が居ることも当たり前の事だ。 「あ、おっはよー、大石!」 「早いな、英二……。今日は雨かな?」  ひっどーい、という可愛い抗議に、嘘々ごめん、と軽くいなして、 「おはよう、不二」  しっかり不二には挨拶をした。むくれる菊丸にも、おはようと言って頭をぽんぽんと叩 く。 「おはよう。……そのへんにしておいたら?」 「そうするべきだろうな。さもないと、菊丸の機嫌がもっと悪くなる確率95パーセント」  ぬっ、と影ができる。その背の高さとシルエットから、また一人青学レギュラー陣がお 目見えしたと判断がついた。 「うわっ、びっくりしたー! おはよ、乾」 「ああ、おはよう。今日は不二の誕生日だな」 「え? そうなの不二! んもー、なんで言ってくれないのかなっ」  また別の意味でむくれた菊丸を放っておく形で、ぞろぞろと部室へ入っていく。とりあ えず着替えないことには何も始まらない。 「さすが乾、部員の誕生日まで把握してるんだね」 「お前の数少ない正確なデータだからな。それに、閏年しかない日だ、覚えやすさも違う」 「にゃるほどー」  朝練の始まる前、途中、終わった後と皆に祝われつづけた。どこから聞きつけてきたの か判らないが、下駄箱には数枚の可愛らしい封筒が入っていたり、ベタに机の中に小箱が 入っていたり。  毎年、二十八日に味わっている大変さが、今年は二十九日に降ってきていた。 「聞いたっスよ、不二先輩。今日誕生日なんすね」 「あれ、桃? タカさんに練習付き合わされてたんじゃないの?」  放課後になり、再び部活に精を出していると、ふいに桃城が話し掛けてきた。人懐っこ いこの後輩は、わりと誰彼構わず接してくるようだけれど、それでも不二と一対一という のは珍しい。 「付き合わされてた、なんて。今もう終わりましたよ。パワー系の技試す時は俺が相手に なりやすいし、俺もそういう人が相手のときの対策練りやすくなるんで、むしろ俺のほう が感謝すべきなんじゃないっスかね?」  手塚をして「クセ者」と言わしめた冷静な洞察力と対応能力は、こんなところにまで生 きている。不二は笑って、首に巻いたタオルを取った。 「そうかもね。ねぇ桃、ちょっと相手しない? カウンターの練習しようかな」 「へっ? 俺がっスか……それなら越前の方が、」 「ダメ。彼相手だと、お互い試合みたいになっちゃって、練習にならないから。それに、 桃のダンクを返してみたいんだよね」  河村の相手をした後で、体力にいまいちためらいを感じていたらしい桃城も、「誕生日 プレゼントだと思って」という一言で相手を務めることを承諾した。 「次は越前とやるみたいに、試合っぽくやりたいっスね」  とは、練習終了後、ロッカールームで発された桃城の言だ。 「お疲れっしたー」 「また明日な!」  結局、レギュラー陣には全員に「おめでとう」を言われた。海堂などは、若干ぼそぼそ と喋っていて聞き取りづらかったが。 「終わった? 手塚」 「ああ。後は鍵を返したら終わりだ」  大石が持つ鍵とは別に、もう一つ鍵がある。こちらは学校保管で、今日のように日誌を つけているなどしていて、大概の場合は手塚が最後に部室を出ることになるため必要にな ったものだ。 「そう。じゃあいつもみたいに正門で待ってるね」  不二と手塚はいつも一緒に帰っている。トップ2だけあって、誰もそのことに異を唱え たことはない。 「ああ。すぐに行く」  そうして一旦別れて、校門で彼を待っている。これもいつもの事だ。不二は、この時の 夕日の色が好きだった。そしてしばらく、その紅を見つめていれば、 「不二」  凄みのない、硬くて優しい声が自分の名前を呼ぶことを知っている。 「今日もお疲れ。じゃ、帰ろう」  夕日を背負って、目の前に黒く長い影ができる。特に何も話さない。ただ、時々どちら からともなく、日々の事をぽつりぽつりと話す。テニスのことになると、たまに舌戦にな るから、どちらかの家へ行った時に主に話すようにしている。部のことは、手塚が相談す るなら大石相手にだ。ただ、第三者の目がほしい時や、不二に個人的に意見があるときは 、その話題も話す。 「……おめでとう」  ただ、今日は特別に話すことのある日。いつもとは違う日。 「ああ、うん。ありがとう。朝も、みんなに便乗して言ってくれたのに」 「菊丸に強要されたようなものだったからな。改めて、だ」 「律儀だよね」  手塚の眉間に、少しだけ皺が寄った。褒めているのか、けなしているのか、判断が付き づらいのだろう。 「それで、プレゼントは?」  有り体にねだってみる。そうでもしなければ、なかなかここから先のことは言い出さな いのが常だからだ。  がさ、と不二の左手に握られた紙袋の中身に一瞬目をやって、手塚はふいと目をそらす。 「そんなに貰っているのに、とでも言いたそうだね。これは、返せなかった分だよ」 「……」  すたすたと、二歩ほど不二を追い越して、唐突に振り返った。逆光で、ただ細身の眼鏡 が光を反射するだけ。 「どうせお前は、俺からのでないと意味がない、などと言うのだろう」  思わず目を見張る。そんなこと、今まで一度も口にしたことのないくせに。 「うん、ご名答……。ああ、そうか」  決して急いだようには見せないで、二歩の間を埋めた。不二は少し高い位置にある手塚 の耳に唇を寄せる。 「妬いた? 国光」 「……」  ぎり、と奥歯を噛み締める音がした時点で、そうだと言ったも同然だ。手塚もそれは判 っているのか、ますます眉間の皺が増える。  不二が一歩二歩と進んでいくのに、慌てた風もなく寄り添ったけれど。妬いた自分がみ っともなくて、そしてあっさりと気付かれたこと、隠し切れなかったことに戸惑いを感じ ているように見えた。 「いいんだよ、手塚。やきもち妬かれるなんて、男冥利に尽きるしね」 「……そうか」 「そうだよ。第一、お互い様だと思わない? 君がどれだけ色んな人間から注目浴びてる と思ってるの」  その一言に反応はなかった。というより、反論できなかったという方が正しいのかもし れない。それは紛れもない事実だったし、実際に不二がそれについて少し妬けると言った こともあるからだ。  夕日が住宅街の稜線に飲み込まれて、東の空が群青にから深い黒へと染まり始める。 「それで、プレゼントは?」  数分前と全く同じトーンで言うと、困ったように視線をそらした。さすがにそれには不 審を感じて、不二の足が止まる。 「お前はそれだけ物を貰うし……何が良いのか、」 「つまり結局買ってない、と」  恐らく青学レギュラー陣でないと気付かない程度に、手塚の声色が不安定に揺れた。 「……すまん」  それでも、この表情だけは不二の前でしか見せないものだと判っている。緩く、頭を横 に振った。電柱に付けられた街灯に、その薄い茶色が透ける。 「いいよ。それだけ、色々と考えてくれたんだよね。――じゃあ、」  とん、と手塚が肩にかけるテニスバッグが電柱に当たった。  覗き込まれて、十センチと間のないその隙間で、不二の瞳が細く笑った。 「とりあえず、今日はこれだけ」  下顎を少し突き出して、それで触れただけの唇同士を、手塚の方からも少しだけ押し付 けた。乾いた、冬の終わりの味がした。 「今日は、ということは、」 「次の部活の休みはいつだったかな。僕の家に来る? それとも、君の家に行こうか」 「……」  何が起こるのか容易に想像できるだけに、おいそれと承諾したくはないが、事実プレゼ ントを買っていないのは手塚の方だし、こればかりは受け入れるしか無さそうだ、と判断 する。 「……母さえいなければ、俺の家でいい」 「そう? まあ、どちらでも大して変わらないかな。だって、」  君と僕が一緒に居ればいいだけの話なんだから。  家に帰れば、母と姉と反抗期の弟と、父からのエアメール、それから温かい料理が待っ ている。