暑い。  生まれてから何度となく夏を迎えてきたが。 「……あーつーいー……」  一人きりの自室で、誰に聞かせるでもなく呟いた。いくら人斬りだなんだと呼ばれてい ようが、それくらいの弱音を吐くときくらいあって当然である。  少し前までは、例え一人であってもあまりそのような感情は吐露しないように気を付け ていたものだが、まあ人とは変わるものだ。変化した原因は今更語るまでもない。  りん、とどこか他の部屋に掛かっているのだろう、風鈴が涼しげな音を鳴らしている。 だがそれはあくまでも涼しげな音であって、実際の体感温度までが変わるわけではない。 よって、抜刀斎の呟きは未だ撤回されないままだ。 「……」  いつも仕事のない日中は、(仕事があったとしても、大概暗殺などというものは白昼堂 々とやるものではなく夜の闇にまぎれてするものである)一人部屋で刀の手入れをしたり ふらりと小萩屋の中でも人気のないところを歩きまわったりしているものだが、今日ばか りは本当に暑かった。いっそ眠ってしまえれば、起きたときには夕涼みもできようとは思 うのだが、いかんせんこの気温では体も眠りにつけないと文句を言っている。 「……」  今日は浪士の人々も出かけていたはずだ、とようやく思い出して、せめて日の当たらな い一階へ行こうと腰を上げる。そうすれば一応気温は下がるはずだし、土間へ行けば甕に 汲み置きの水があるだろう。  抜刀斎は裸足の裏を木目に添わせながら廊下を進み、階段に足を掛けた。  するとその時。  ――がしゃん、と何かが落ちて割れたような音がして、けれどそれだけなら往々にして あることだから気にも留めなかったのだが。 「巴ちゃん!」  女将の鋭い声が飛んで、その瞬間、抜刀斎は暑さもいままで少し弱っていたことすら忘 れて、一気に急な階段を駆け降りた。  その勢いのまま、足音を殺すこともせずに廊下を走りぬけ、音のした方へ向かうと。 「あ、緋村さん! よかった、ちょっと、巴ちゃん運んであげておくれやす」 「は、」  女将に言われて、彼女の視線を辿ると。 「巴、」 「大丈夫、です……」  土間に尻をついて、ぐったりと甕に体を預けた巴が居た。切りそろえられた前髪が、下 を向いているせいで顔を覆う簾となっていて、一行に表情が伺えない。 「あきまへん、早う横にならんと」 「……、すみません」  一回は否定してみたものの、自分の体の状況は本人が一番良く判っている。巴は力なく 顔を上げると、微かに微笑んでみせた。  そんな余裕があるくらいなら、もっと早くに休みを申し出てほしかった。 「運びます」  二回目になるな、とぼんやり思いながら、相変わらず様子の変わらない巴を横抱きにす る。客間へ、と女将に言われて、先導する彼女に付いていくと、滅多に使わない奥の間へ 通された。あっという間に布団が敷かれて、けれどその素早さは女将が巴を想う故だと判 っている。 「ありが、とう、」 「喋らないで」  仰向けに寝かせて、その唇が僅かに動くのを見てから、抜刀斎も少しだけ緊張を解く。 症状からいっても、この暑さに中てられたのだと判ったからだ。大丈夫、明日には元気に なる。 「……緋村さん、」  しかし、女将がぼそっと呟いたその声音に、何を求められているのかを即座に悟って、 抜刀斎は慌てて部屋を飛び出し、襖をぴったり閉め切った。  それはそうだ、あの厚手の着物のままで寝かせられるわけがない。いっそ今日はあのま ま寝かせた方がいいだろうし、それならば寝巻きに着替えてしまったほうがいいのだ。要 は、抜刀斎が邪魔だということである。  ならば自分に出来ることをしよう、と再び土間へ向かう。割れた茶碗を掻き集め、持っ ていこうと湯呑に冷たい水を汲み、自分も一口飲んだところで。 「……っ、」  横抱きにした感触がようやく認識できて、思わず水を飲みこむことすら忘れた。  一回目、あの血の雨の中で抱きあげたときはただの人間でしかなかったのに。  心持が変わるとこうも違うものかと驚いたついでに、顔の温度がどんどん上昇していく のも止められそうになかった。  まったく、この暑いのに、もっと熱くなってどうする、などと悪態を吐いてみたところ で、ただの照れ隠しだと判っているけれど。