冷たい。白い。  温かい。赤い。  雪とその上に横たわる、人だったモノとそれを抱きしめる人。  年末の雪の舞う中、好き好んで外出しようとする人などいない。おまけに、抜刀斎たち の家は集落からも少し外れたところにあって、おかげで誰にも見咎められることはなかっ た。  あの、小さな子供はどこかへ行ってしまった。  ここに残って、一緒に彼女を弔ってほしかったのに。むしろ、弔う権利があるのはあの 弟だけだと思った。そして、関東に居るという彼女の本当の家族たち。  ……一瞬、祝言をあげたのだから自分も家族に数えそうになって、即座にそれはないと 否定する。  だって、こんな、彼女を、自分を守ろうとしてくれた彼女を、冷たくしてしまった男な んて、家族であっていいはずがない。  まだ、死後硬直の始まっていない肢体を、一旦壁と板敷きの床に凭れかけさせて、彼女 がいつも寝ていた布団を敷いた。きっと、昨日この布団を使っていたところで、彼女のこ とだから綺麗に畳んで仕舞って、それから出かけるのだろう。  けれど、昨日使った布団は一組だけだった。  抜刀斎がいつも使っている、その布団だけだった。  そこへ、昨日は二つのぬくもりが潜り込んで、肌を寄せ合って眠りについた。だから、 昨日は使われることのなかった、彼女の布団を、今、敷く。  そして彼女を、山を降りたときと同じように抱き上げて、そっと布団の上に横たえた。  血で濡れた服を着替えさせてから、とも考えはしたが、実際問題として、脱がせるとこ ろまではまだしも、換えの服を上手く着せられる自信はない。他に人手があるなら話は違 ってくるが、この場には自分一人だし、第一、彼女に誰かの手を触れさせるつもりもなか った。  横たえた彼女の頬を、絞った手ぬぐいでそっと綺麗にする。乾ききらない血が、そっと 手ぬぐいに乗り移った。  背中の傷が完全に見えなくなると、もう、なんだか眠っているだけのように思えた。今 にも目を開けて、そして、「すみません、こんな時間まで……」なんて消え入りそうな声 で呟くと、すぐに朝餉の用意をして、それから、……それから。 「……う、ぁ、……っ」  もう泣いた。山の上で、徐々に戻ってきた五感の全てを侵されながら。  冷たさも暖かさも、白も赤も、濃い血霞のにおいも、……もう聞こえない、心の臓が鼓 動を刻む音も。  全部、全部、あの場所で、あのときだけは、抜刀斎と巴のものだった。 「ふ、……うぅ、」  それでも、それでも、どんなに歯を食いしばっても、喉の奥から溢れ出す獣にも似た声 は、彼の手に余った。  頭では、こんなことをしている場合ではない、年の瀬・正月という慌ただしくも目出度 い時期だけれど、京の方へ行って、長州勢として少しだけ面識のある寺へ赴き、荼毘に付 してもらうよう頼まなければ、そうしなければ、いくら冬だとはいえ、彼女が、と判って はいるのに。  どうしたって、足はもう、彼女のそばから離れようとはしなかった。立ち上がれない。 もう、立ち上がるということを、足が忘れてしまった。 「――っ、」  握りしめていた彼女の手が、ゆっくりゆっくり冷たくなっている。ああ、このままの形 で固まってしまったら見栄えも何もかも良くはない。離さなければ、そして綺麗な格好で 人としての時を止めてもらわねば。  そっと彼女を気をつけの形に戻すと、その繋いだ手は離さないまま、抜刀斎は隣に横た わった。床の冷たさなど、感じなかった。  ゆっくり目を開けると、もう今がいつなのか判らなかった。  手をつないだ先にあるのは、人ではなくなったモノだったけれど、でも、抜刀斎はそれ のために動けるようになったと思った。思えば、彼自身も短期間にあれだけの戦いをした のだから、すぐさま京へ上れるような体ではなかったのだ。  草鞋と傘と蓑を身につけ、何の躊躇いもなく、刀を腰に差そうとして、 「……っ」  その刀で何をしたかを思い起こし、けれどぎゅっと鞘を握りしめると、そのまま迷って などいないかのように自然な動きで刀を差して、家の敷居を外へ出た。  雪は止んでいて、薄曇りのなか、それでも判る太陽の位置は恐らく早朝だった。考えて みれば、山を降りたときはもう昼近くになっていたような気もする。半日も寝て、何も食 べていない。  抜刀斎は家の中を振り返る。寺へ行ったらすぐに戻ってくるよ、と心の内で呟いて、 「……行ってくる」  返事のない挨拶は、口に出して呟いた。  それから、寺へ行くと、まず和尚は抜刀斎を問答無用で風呂に入れて傷の手当てをして 飯を詰め込み、その上で、わざわざ忙しい時期にも関わらず、事情も訊かずに、夫婦が住 んでいた村まで足を運んでくれた。  経を挙げ、家の裏手で荼毘に付すと、骨壺を持って、和尚と抜刀斎は京の寺へと引き返 した。そこで、小さいながらもしっかりした墓石を立ててもらい、一応の全てが終わった。 「剣心ー?」  それから、あの家で半ば気の抜けた抜殻になっていた自分を呼んだのは、桂さんだっけ。 「剣心、どこー?」  薫殿が呼んでいる声が、先程から道場中にこだましている。そろそろ出ていくべき頃合 いではあったけれど、もういっそ出かけたことにしてしまって、あと一刻くらいは隠れて いようかと思った。  初雪が、大晦日に降った。  屋根の上に座る抜刀斎だった男は、当時と変わらない、冷たい白を目に、小さく小さく 笑う。  剣心として好きになったのは薫殿。  けれど、抜刀斎として愛したのは、巴、お前だけだよ。