目の前に、一面の紅色が広がって、けれどその中に浮かぶ黒を抱き締めるためならば、 すくんだ足などなかったことに出来ると思った。  風が肌を撫でた瞬間、その先から肌が粟立った。思わず、右手を左腕に擦りつけるよう にさする。ああ、もうそんな季節になったのだ。  まだ結っていない緋色の錦糸が靡いて揺れるのを、他人事のように見つめていたら。 「なっ……何をぼんやりなさっているのですか!」  少し浮遊していた意識が、冷えた空気の中によく通る声に引き戻された。井戸の前に立 ち尽くした彼は、さぞかし奇妙に見えることだろう。しかも、手には並々と水の入った手 桶が握られたままだった。 「あ、ああ……別段何というわけでもないよ。ただ、秋になったなぁ、と」 「……。……そうです、秋になりました。ですから、そんな格好で長い間外にいらっしゃ るのはどうか、と」  言われて、自分の格好を見返してみた。それから、改めてこれは寒いはずだ、と納得す る。顔を洗おうとして、しかし袖を濡らすと乾きが悪いから止めろ、と巴に言われたのを 思い出したので、たすきで両腕を捲りあげていたのだった。  一見するとまるで歳相応に見える細腕が風に晒されている様は見ていて楽しいものでは ないだろうな、と推測はできる。  けれど、どうしてそこまで一つ間違えれば叫ぶように咎められたのだろう。 「それは……、今にもその水を体に掛けそうだったので……」  首を傾げながらそう訊くと、ちらりとも目を合わせずにそれだけ言って、巴は家の中へ 入って行った。彼女の足元には、彼の緋色よりももっと赤黒い紅葉が散って、踏まれる度 に泣いている。  その歩みに合わせて揺れる黒い絹糸が完全に視界から消えるのを見送って、抜刀斎は緩 くかぶりを振った。  前に見たことなど忘れてくれたって構わない。  夏に入った日のことだった。  本当に、その日から、まるで太陽が眠りから覚めたように、ぐんぐん気温も湿度も熱気 も何もかもが上昇した日。地中から、慌てて蝉が顔を出してきたくらいの。  そんな日の、太陽がもう少しで山の端に掛かる頃合いだった。  抜刀斎は、気流しの上半身から両腕を抜いて、そしてその格好のまま井戸の水を頭から かぶり、それで涼をとっていた。もちろん、人目があっては不味いので、小萩屋の中庭に ある井戸でだ。  本人としては至って普通の行動だったし、第一周りに住んでいる町人だってそうしてい たので、特に何も考えず、ただ肌の上で次第に蒸発していく水の感触と、時折ゆらりと吹 く風に少し冷える感覚を楽しんでいた、のだが。 「……え?」  零れるような呟きを耳が拾う。  声のした方を胡乱気に見やると、白い顔をさらに白くさせて、巴がそこへ立っていた。 口元にあてた手が、十間ほど離れているのに、がたがた震えているのがよく見える。 「巴、サン?」 「あ、……あなた、……それ、は、」  声が、小さい。小さいのに、酷く大きく聞こえてくる。まるで、彼女との間に、透明で 見えない管があるかのようだった。 「ああ……」  彼女が何を見てそんな風に震えているのか。 「ごめん。見なかったことに、」  判っていたけれど。 「出来るわけがありません! 何をおっしゃっているのですか、さあこちらへ」  息が詰まるほどに叫んだかと思うと、あんなに震えていたくせに、躊躇いもなく駆け寄 ってきて。裸足で縁側から飛び降りて、砂利を踏んで。そうして女将さんのところへ連れ て行くために握られた手首の、なんと熱かったことか。  人の肌の、あまりの熱さに、喉の奥が引きつって痛い。  ――彼の髪から滴り落ちる水が、点々と赤黒い染みを作っていく。  それを忘れられないのだろう、と思う。  それはそうだ、自分だって、あまり思い出したい記憶ではない。  隣町まで、薬を売りに行って帰る道すがら、溜め息をつくように空を見上げた。秋らし く、果てしないほど端から端まで天高く真っ青な空が視界を埋め尽くしていて、許される なら倒れこんでしまいそうなほどに。  あの後、何事もなかったかのように二人で朝餉を取って、何事もなかったかのようにお 茶を飲んで一息ついた。そして、当初の予定通り、抜刀斎は薬を売りに、巴は家事をこな している。ありきたりの日常に、眩暈を起こしそうだ。  帰り道のだんだん重くなる足取りに舌を打ちそうになって、道端でやるものではないな と思い直し、けれどその代りに視線が次第に俯いていった。すると。 「あなた」  雨の降りだす一瞬前のような、そんな気さえする声に呼ばれて、下を向いていた顔を急 いで上げた。 「見て下さい、」  巴は、真っ赤な血だまりの中に立っている、 「綺麗でしょう」  ように見えた。違う、血ではない、けれど鮮血によく似たその色を、広げてなお美しく 咲き誇る花は。 「……彼岸花」 「ええ。こんなに生えている場所があるとは知りませんでした」  花が咲かなければ、そこにあることも判らなかっただろう。けれど、咲いてしまえば、 なんという存在感だろうか。辺り一面真紅に覆われて、風にそよいだ彼らが何かを囁いて は消えていく。さわさわ、葉のこすれあう音が、鼓膜に響いては名残を残す。 「……っ、」  真紅が、あの日足元に広がっていた薄い血と重なってはぶれていく。  けれど。 「あなた? どうされましたか」  彼女が、その中で笑うから。  目の前に、一面の紅色が広がって、けれどその中に浮かぶ黒を抱き締めるためならば、 すくんだ足などなかったことに出来ると思った。  抱きしめられたまま、彼女は言う。  彼岸花の花言葉は、「悲しい思い出」。  彼岸花の別名、曼珠沙華の花言葉は、「想うはあなた一人」。 ※以下解説(反転)です。解説の要らない話を……書ければ……。  つまり小萩屋に居たころ、殺しをやったあとにうっかり浴びた返り血を洗い流そうとし  て、でもちょっと暑さと色々とで放心状態になってたら巴に叫ばれたのです。で、一緒  に住みはじめて、そしたら秋なのにまた水浴びるっぽいカンジで突っ立ってるのでギョ  ッとした、と。すみませ……ん。