蝉がうるさい。  そういえば、蝉の声を聞くのももう何年振りだろうか。 「……? 蝉はずっと鳴いていますが」 「そうなのだけど……どう言ったらいいのかな、蝉の声を認識した、というか」  はあ、と判ったのか判っていないのか曖昧な表情で巴は相槌を返した。もっとも、巴が はっきりした表情を表すことは滅多にないので、いつも通りの顔であった、と言ってしま えばそれまでなのだが。 「もうじき、蝉の声も聞かなくなります」  部屋で繕いものをする手は止めることなく、何でもないことのように薄い唇から零れ落 ちた言葉が、その空間の一ピースになる。抜刀斎は、無意識に空気を飲んだ。 「……」  数瞬前までと同じように蝉は鳴いているのに、まるで薄い膜が一枚掛かったかのように ぼやけて聞こえる。  いや、そうではなくて、きっとこれらの声の一つ一つが命だと判ったから、うるさいと 思わなくなったのかもしれない。地上へ出てから死ぬまで一週間の命が叫ぶ。 「つくつく法師の声は聞いたか?」 「……蝉を気にかけていらっしゃらないわりには、お詳しいのですね」 「詳しくはないさ。ちょっと、知り合いに風流……というのか、少し――だいぶ変わった 人がいてね。その人が、夏の終わりには言っていたから」  不釣り合いなように見えて、けれどその長身で風変わりなマントを着こなして酒をたし なむ、剣術の師匠が。 「つくつく法師の声が聞こえたら、秋だ、って」 「……そうですね」  彼女も、繕いものの手を休めて外を見やる。だるく照りつける太陽に焦がされて、土は 砂へと姿を変えていく。蒸されるような気温の中、ただ部屋の中にはひんやりとした冷気 が薄く蔓延していて、それがどうにも心地よい。  頭の高い位置で結んだ緋色の髪がさらりと肩を滑った。 「……少し鬱陶しいな」  そのさらさらした感触を指先でもてあそびながらそう言うと、巴は膝に乗せていた繕い ものを、すっと横へ置いた。  どうするのかと思ったら、彼女は自室へと足を向ける。すとすと、と足袋と板張りの床 が奏でる乾いた音が、遠ざかって近づいた。  戻ってきた彼女は、抑揚のない声音でこう告げる。 「後ろを向いて座っていただけますか」  これが巴からの申し出でなかったら、真っ先に飛び退って、次の瞬間には刀の鯉口を切 るような台詞だった。  けれど、抜刀斎はそうしない。そうする必要を感じない。  いっそ、巴が今、手に持つ物が短刀であっても構いはしない。 「こうか?」  抜刀斎が後ろを向くと、巴は静かにその背後へ座った。彼女の細く温度のない指が髪を 撫ぜる感触が心地よい。 「少し動かないでいて下さい」 「ああ」  するする、と肩甲骨あたりにわだかまっていた髪が重力に逆らって持ちあげられる。そ のまま、頭の頂点あたりでごそごそやられていたが、しばらくして、初めに触れたときと 同じように、するりと手が離れた。 「どうですか」 「これは……簪か」 「はい。鬱陶しいということでしたので」  ゆっくり頭の後ろに手を回すと、女物の簪が刺さっている感触がした。飾り気のない、 一本の。 「これから外へ行かれるわけでもないでしょう」 「まあ……」  女物である、ということに多少の抵抗を感じていた彼に、巴はもっともな理由をつけて くれた。同時に、断る理由もなくなる。 「しかし、いつも簪など使わないのによく持っていたな」 「ああ……、風呂上がりなどには髪が濡れていますので使いますが」  ……ということは、これは彼女が普段から使っているもの、ということで間違いないの だろうか。  途端に上がった心拍数を嗤うように、蝉が鳴いている。