――ぴったりだと思った。  しとしと、雨が降ってくる。  雲が灰色の天井を作っていた今朝から、いつ降るかいつ降るかと思っていたが、意外と 長く持ったものだ。日の端が、山の縁に掛かる頃、ようやく耐え切れなくなったかのよう に泣き出した。  巴は、渡り廊下から曇天を見上げる。低くうなる風に、廊下の端まで浸食されて黒ずん でいた。旅館の女将から、酷い雨のようなら戸板を立てるように言われたが、どうしたも のかと考える。十八年間生きてきて、このような天気のときにはこれ以上雨も風も酷くな らないケースが多い、と知っている。  なにより、この雨をずっと見ていたかった。  中庭にある木の葉がいっそ沈んで見えるほど黒く光って、京都の盆地に沿って渦巻く風 が心地よい。関東の生まれである巴には、これからくる京都の夏の前触れである梅雨を、 もっとずっと、見ていたかったのだ。新しい季節に適応するのはそこまで得意でもなかっ たが、心待ちにするくらいの情緒はある。初めての土地なら、尚更だ。 「巴サン」 「あ、」  気づくと、赤を抜いたような色の髪が隣に立っていた。 「おかえりなさいませ」  相変わらず、気配がない。第一、巴が今まで歩いてきた廊下でさえ、一歩踏み出すたび にぎぃぎぃと鳴いていたというのに。湿気を吸った、優しい色合いの簀子。 「そちらへ行きたいのだけど」  なのに、この人斬りは、そんな廊下に一言も文句を言わせることなく歩けるのだ。  なんて、遠い。 「ああ、すみません」  巴が廊下の真ん中へ立っていたので、通れなくなっていたらしい。すっと一歩足を引く と、軽く目礼をして通り過ぎていく。 と、その時。ふっと、むせ返るような雨の匂いの中、更に鼻をつく匂いが、通った。 「……あの、」  きっと、こんな雨の日は、刀にとってだっていい日ではないだろう。目標にされている 人も家の外には出ないに違いない。まだ、日が出ているし、第一、今日の彼からはあのぞ っとするような殺気も感じない。いや、戦闘に関しては巴は素人だから、隠されてしまっ ているのかもしれないが。 「失礼でしたら申し訳ありません」  どうして、こんなときにまで、あなたからは血の匂いがするのですか。  ……なんて、訊けるわけもなく。  まず、訊こうと思ってしまった自分に驚くしかない。普段なら、気にもしないくせに。  きっと、こんな泣くように降る雨の日に、泣かずに消えない匂いをまとわりつかせて生 きている人を、どうしてかこのまま放っておけなかっただけ。  けれど、話しかけた以上、なにか言葉を紡がなければ。 「誕生日を、お伺いしてもよろしいでしょうか」  少しの逡巡を経て、口をついたのはそんな質問だった。  案の定、抜刀斎は怪訝な顔をする。それはそうだろう、今まで碌に話もしているようで していない人から、そのようなありきたりの質問を投げかけられたのだから。  さあさあ、雨の降る音が、優しい優しい檻を作った。逃げたいとも思わない。 「……水無月」  ぽつんと、庇から雫が落ちるのと同時に、言葉も落ちてきた。  え、と顔を上げたときには既に踵を返していたから、その表情は知らないけれど。  水が滴り、全ての生命に等しく降り注ぐ。優しい、雨の響く庭。