朝露に濡れた葉から、小さな雫がポツリと零れ落ちた。ただ、重力に耐え切れず、咳を するような唐突さで。  それを横目にちらりと見やって、抜刀斎は宛がわれている自室へと向かった。すとすと 、と素足で踏みしめる階段の乾いた音が、みんなの眠りを妨げないように祈る。一番上か ら二段目の段だけは、ぎいっと嫌な音を立てて軋むから、よほどのことがない限り、その 段は飛ばして、二階の板張りを踏みしめる。  もちろん、それは今日だって、変わりなく。  階段を上った先にある、丸い明かり取りの窓から、朝日が差し込んでいた。 「……っ」  とん、と滑りのよい襖を閉めて、初めて少しだけ緊張を解く。どくん、どくん、と体の 奥で脈打っていた血が、ゆっくり鼓動の間隔を伸ばしていくのを感じて、息を細く長く吐 いた。  自分の寝泊りしている部屋なのに、どうも生活の匂いがしない。それは、夜のうちに、 きれいに掃除されているからなのだ、と判ってはいる。けれど、その掃除をしてくれた人 そのものを考えることはあまりしないようにしていた。 「……」  緊張を解くにつれ、強い眠気が襲ってくる。  それもそのはず、今回の標的を討つには夜更けが一番だ、ということで、朝日の昇り始 める少し前に仕事をしたばかりだ。普段なら日付をまたがないうちに済ませるのだが、標 的の都合上、こんな時間までかかるときもある。  夜通し働いた目に、朝日は残酷な輝きを当て付けてくる。ただただ、目が痛い。  けれど。  文机と座布団、それだけの簡素な部屋に、何か花が生けてあった。そして、その文机の 横には、きっと昨日のうちに干したのであろう、柔らかそうな布団が彼の横たわるのを待 っている。  抗いきれない、視界が霞むくらいの本能に、抜刀斎は髪を結わえていた紐をせめてもの 抵抗として解いてから、糸の切れた操り人形のように、ふらっと布団に倒れこんだ。  がっ、と胸倉を掴まれるように、意識が現実へ引き戻される感覚がした。  いつもより、睡眠の世界と現実の隔たりが大きくて、脳内が一瞬混乱する。けれど、そ のコンマ数秒後、右手に刀の柄が触れたそのときには、もういつもの抜刀際だった。 「うわ、待て、俺だよ!」 「……飯塚、さん」  握り締めた柄から、ゆっくり力が抜けるのが判った。それでも、手それ自体はまだ刀に 掛かったままだ。飯塚は視線の先にそれを認めて、ふうっと肩を上下させた。 「おいおい、まさか本気で俺を殺るつもりじゃねえだろ? せめて柄から手を離してくれ よ」  苦笑混じりに軽く口を叩けば、それが利いたのか、抜刀斎は一旦薄い瞼を閉じて、溶け るように構えを解いた。  深い藍の着流しに、燃え立つ緋色の髪が巻きついて、妙に人を惹き付ける容姿をしてい る。いつも結い上げているそれが払われている、それだけなのに。 「昼餉の用意ができた、ってよ。お前朝も食ってねぇだろう」 「こんな朝方に掛かる仕事を回したのは飯塚さんたちでしょう……」  しかも、無理矢理起こして下さって。  正直、あと数刻は眠っていたかったが、起こし方が悪かった。夢の淵ではなく、まさに そのど真ん中にいた時でも、人の気配を感じたら飛び起きる抜刀斎のことを、いい加減飯 塚も判っていいのに、と思う。いや違う、判っていて、その上でやっているのだ。ならば 尚更止めて欲しい。  寝不足と上手く血圧が戻ってこないせいで、じくじく痛む頭を宥めながら、とりあえず 身を改めると言って飯塚を追い出した。  すると。 「飯塚さん……何ですか、これ」  部屋の前の廊下に、膳に乗った朝餉が鎮座していた。 「ああ、それな。俺たちが朝餉を食ってる間に置いといてくれたんじゃねえの?」 「……誰が?」 「んなの巴ちゃんに決まってんだろ」  女将は俺らのところにいたし、他の仲居さんもみんな揃ってたと思うぜ。  そう言い置くと、驚くほどあっさり飯塚は階段を下りていった。ぎいっと、上から二段 目の段にもしっかり足をかけて。  拙い。絶対に、拙い。  さっきの飯塚がいい例だが、部屋に入れば刃を向けられることを判っていて、それでも 目覚めたときの空腹を満たそうと、せめて廊下に膳を置いておく。いや、置いておいてく れた。その一連の動作が、どんな意味で行われたのか、詳しい真意は知らないけれど。  急激に、顔が見たくなった。そのあまり変化のない表情の下にある、彼女を見たくなっ た。  拙い。人斬りである自分が、こんなことを望んだらどうなるか、その結末が見えていな いわけではない。なにより、彼女のためにならない。そんなことは判っている。長州の勢 力へ赴いたときから、きっとこんな感情とは無縁で一生を終えるのだと思っていた。それ なのに。  先ほどまで眠っていた暖かな布団、その傍らの文机に生けられた花、そして廊下で抜刀 斎を待っていた朝餉の膳。  巴が、溢れるほど、傍に居た。