その日、薬売りの行商から戻ってくると、家の中からぱちんぱちんと何かを切るような 音がした。訝しく思いながらも引き戸に手をかける。 「今帰ったよ」 「お帰りなさい」  板間に広がっていたのは、色の鮮やかな桔梗だった。その他にも、撫子や萩などが並ん でいる。そして、その草花に取り囲まれて、巴は座っていた。何かを切る音、というのは どうやら当たっていたらしい。 「秋の七草か?」  はい、と頷く。その時に揺れた前髪に合わせて、持っていたすすきも揺れた。そっとそ れを足下において、抜刀斎の方へすとすとと歩み寄る。ぎっ、と軋んだのは床板か、それ とも自分の心か。 「良くお判りになりましたね」 「それは、まあ……」  思えば、どうして自分は見ただけで判ったのだろう。普段、そんな風情のあることに触 れているわけでもないのに。わらじを脱いで足を洗う間に、巴は手桶に水を汲んで持って きた。相変わらず、出際が良いというか段取りがなっているというか。ありがとう、とだ け呟いて、その水を貰った。 「冷たいな」 「もう秋ですから」  外を吹く風も、夏の色はすっかり消えて、朝晩はだんだん冷え込むようになってきた。 ついさっきまで外に居たせいか、指の先が僅かに白い。それを見た彼女の眉根が、少しだ け――本当に少しで、例えばずっと一緒に居なければ判らない程度に――寄った。 「今、茶を淹れます」 「ああ、いいよ。そのうち温まるから」 「いいえ、私も飲みたいので」  そんな、嘘だとわかっているのに。もっともらしい理由をつけて炊事場の方へ向き直る 巴を、無性に抱き寄せたいと思った。  茶を出されて、そして思い出した。 「そうだ、頂き物があるんだ。隣の村落に行ったんだが、その時に――あ、」  そうか、ともう一つ思い出したことがあったけれど、それは咄嗟に口をつぐんで堰き止 めた。  薬箱の一番上は、いつも何か追加で入れたい物があったときのために空けている。とい うか、背負うものというのは、下に重いものがくるのが当たり前だから、自然と一番上が 空く。抜刀斎は、そこに手を掛けて抽斗を引いた。すると、中から串団子の包みが顔をの ぞかせて、巴を見つめた。 「まあ……団子ですね」 「そう。ちょうど畑仕事の合間に俺が通りかかったらしくて、頂いてしまった」 「早く言って下されば、緑茶を……」 「いや、別段気にすることはないよ。忘れていたのは俺だから」  少し熱めに淹れられたお茶を、両手で包み込む。抜刀斎の手を温めるために在るお茶。 京都近辺でお茶といったらほうじ茶だが、確かに、団子には緑茶の方が合うかもしれない 。けれど。  巴はしばらく戸棚を仰いで、緑茶の茶筒を思い浮かべているらしかったが、やがて諦め たのか彼に向き直って湯飲みに手を伸ばした。  途端に、くくっと喉で笑った声がして、巴は一口飲んだ湯飲みを膝へ置く。 「どうかしました?」 「いやいや、何でもない」  それでも、声がまだ笑っている。彼女は首を傾げた。  判っていないな、と抜刀斎は肩をゆする。確かに、団子には緑茶かもしれない。けれど 、自分のために淹れられたお茶があって、こうして二人でお茶を飲む、そのことが途方も なく嬉しくて、合う合わないは二の次だと、どうして気付かないのだろうか。それとも、 そう思うのは自分だけなのか。  しばらく団子に舌鼓を打った。丁寧に蒸してあるそれは丁度良い柔らかさで、まるで誰 かの手のようだった。 「まだ途中ですので、失礼します」  とつ、と落ちるように声が置かれる。巴へ意識を戻すと、すっと衣擦れの音さえさせず に立って、秋の七草へ囲まれに行くところだった。奥に広がるその光景に、抜刀斎は息が 喉の奥でつっかえるのを感じて、唾を飲み込む。泣きたくなった。  ――ここには、秋の七草が揃うとるんよ。あんさん、ほんにええとこを通りがかったな ぁ。  農婦の井戸端会議と化していたところへ、手招かれて寄ってみれば、手に手に串団子を 頬張って笑っていた。小春日和の中、そこだけが本当に春のようだった。 「隣村の薬師さんやろ、あんさん」 「ええ。よく判りましたね」  あはは、と数人がからから笑う。 「そら、こんな世間様の小さいとこやもの、当たり前や」  いつか、幕府方の人間の耳に入らねば良いが。けれど、そんな冷や汗も吹き飛ぶほど長 閑に言われると、自然と抜刀斎の口も緩んだ。 「ああ、ほんなら奥さんおるやろ、別嬪さんの」 「そやったなぁ。あ、これ持って帰り」  あれよあれよという間に、串団子の包みが手渡された。その手際の良さは、ずっとこう して暮らしてきた年季が感じられる。 「あ、ありがとうございます」  薬箱の一番上を開けて、そこへそっと仕舞う。  渡された時に触れた、農婦の手に通う血が、切なくなるくらい温かかった。その温かさ を感じられる、自分で良かったと思った。どれだけ、この手が冷たくても。人を殺め続け た手でも。  この人や、家で待つ人に、少しでも暖めてもらえるなら。 「ここには、秋の七草が揃うとるんよ。あんさん、ほんにええとこを通りがかったなぁ」 「秋の、七草……ですか」  萩、薄、葛、女郎花、藤袴、桔梗、撫子。  一つ一つ、指を折って、とつとつと紡ぐ。秋の七草は、春のそれと違って、眺めて楽し むものなのだ、とも教わった。 「やから、私なんかは思うんよ。ああ、今年もまた死なんと見れたなぁ、って」  死なずに、巴と、秋の七草を。  ああ、来年も見れるとは限らないけれど。  そのかそけくも誇らしげに咲くそれらを、静かに生ける彼女を見ながら、願った。