少しだけ、悔しいと思ったのは、決して気のせいなどではない。  すうっ、と息を吸い込む。  古びて、けれど暖かい匂いが、ゆっくりと肺を満たしては、またしぼんでいく。もう一 度、もう一度。  そうしていたら、急にきり丸の目の前が暗くなった。というより、自分の影に更に大き い何かの影が覆い被さってきたようだ。ばっ、と体を反転させて飛びすさると、ようやく それが何なのか確認できた。本棚の間で、薄く、埃が舞う。 「……もー、中在家先輩……」  同時に、全身に走っていた緊張をゆるゆると解いていく。その細い肩の線がなだらかな カーブを描いてから、ようやく長次は小さく笑った。口元を少しだけ緩めるだけの、でも 確かな微笑み。 「どうしたんすか、びっくりしましたよぉ……」 「……仕事を頼もうと」  そう呟きながら、小さな紙切れを差し出してくる。半ば条件反射的に受け取りつつ、き り丸は手元よりも長次の顔を見上げていた。  ……この人は、目で笑うよなぁ。どっちかというと。  目の方が、人の心を反映する。それが、特に顕著な人だ、とたくさんの人を見てきた経 験が言った。 「……文次郎に」  そんなきり丸の頭に、ぽん、と大きな手を乗せて、小さな力を掛ける。きり丸は、慌て て紙切れへ視線を落とした。――ああ、きっと探るような目をしていたのだろう。失礼な ことをしてしまった。  けれど、お叱りは飛んで来ない。ただ、同じリズムで頭を三回撫でられた。  ……ああ、喉の奥が変に引き攣ったのを、どうか気取られていないといいけれど。 「……潮江先輩へ、っすね。また延滞なんすかー? 懲りないなぁ」  すっ、と小さく膝を屈めると、きり丸は長次の手の下から自分の体を抜き取った。そし て、何事もなかったかのようにいつも通りの声を出して、廊下へと消えていく。  その小さな背を動かないまま見送って、そして長次は短く詰めた息を吐き出した。 「先輩……」  突然聞こえて来た声に、長次は驚いたりはしなかった。ただ、不破が聞き逃さない声量 で、 「気配を消すのが上手くなったな……」  とだけ言った。  え、と少しだけ喜色を滲ませた実音を持たない息の声が聞こえて来たけれど、直ぐに、 違います、そんなことじゃなくって! と抗議された。 「……なら、不破には怒れるか?」  え、とまた聞こえたが、今度はちゃんと音の伴った声だった。 「そりゃ……、あ、でも、きり丸だから……、いや、だけど、」  迷い癖が出たな、とまた小さく笑って、長次の足は貸し出し机へ向かう。その後を、雷 蔵が追った。手に持っていた、返却済みであとは本棚に戻されるだけの本たちを、長次の 前へ積み重ねる。縦に長い長身の雷蔵が、身を屈めて悩んでいる様はある意味で面白かっ た。しかし。 「……不破、悪かった。私も怒ろうと思ってたんだが」  いたずらに迷わせるようなことを言う資格は、今の自分にはない、と判っている。それ でも、責めているとも気遣っているとも取れなかったが、声を掛けてくれた雷蔵に訊いて みたかったのだ。  珍しい長治からの謝罪に、雷蔵はふっと顔をあげると、どこか遠くへ目線を飛ばす。 「なんか、三郎の目とはまた違う感じでしたね。同じ“探る”でも」  無言のまま、それはそうだろう、と雷蔵を見上げたら、ですよね、と言う。お互いの、 目が。  鉢屋の目は、観察眼だ。人の特徴を掴み、そのままに真似てみせる。しかし、きり丸の それも確かに観察眼だけれど、後ろにある感情が違うのだ。 「中在家先輩が溜息ついたのなんか初めて見ました」 「……仕事に戻ろう」 「はい。……って、先輩、何を?」  しばらく抽斗をごそごそ探っていたが、気付くと長次の手には古く少し萎びた和紙があ った。首をかしげる雷蔵をよそに、姿勢を正し、硯と筆を出して墨を擦り始める。  窓の外枠に、いつのまにか蝶々が羽を休めていた。 「えーっと、潮江先輩の部屋は、っと」  そもそも、あまり一年生は六年長屋になど行かないものだ。なぜなら、上級生の長屋と は、歴代の生徒たちが作っていった数々の罠が放置されている、という末恐ろしい場所だ からである。一応、卒業する前に取り除いていく、というのが習わしらしいが、そこは忍 者と言えども人の子、忘れることだってある。そして、そんな罠に引っ掛かるのは、どこ かの不運委員長を除けば、自然と六年生を訪ねてきた下級生へと限られるのだ。  けれど、長屋の部屋は「いろは」順に割り振られているため、文次郎の在籍するい組は あまり奥まったところへあるわけではない。おまけに、最上級生ともなれば、在籍する忍 たまも自ずと減っていくので、きり丸が「潮江・立花」と表札の掛かった部屋を発見する のに時間は要らなかった。 「潮江せんぱーい……って、あれ?」  部屋の前まで歩いて行くと、障子が一・五尺ほど開いていた。ひょこっ、と中を覗き込 むと、文机の上に突っ伏した人影が一つ。  顔は見えないが、結った髪からして潮江文次郎その人だ。 「先輩? ……寝てんスか?」  息遣いが全く聞こえて来ない。その上、寝ているにしてもあまりにも微動だにしない姿 に、きり丸の脳裏を悪い想像が駆け巡った。 「……っ!」  急に足元がおぼつかなくなって、ふらり、と敷居をまたいだ、その瞬間。 「――」  顔の横を、何かが横切った。  と認識できたのは、カカッ、という、ちょうどきり丸の後ろにあった柱へ手裏剣が二枚 刺さっている音を聞き、それを視認した後だったが。 「誰だ――、って、ああ、長次のとこの」 「……あ、」 「悪かった。どうもな、こうやって寝ながら警戒するのが癖に……、おい、大丈夫か?」  死んでるのかと思った、生きてた。  安心すると同時に、今の一瞬で殺されそうになった、その事実がじわりと足から這い上 ってきて、動けなくなる。まるで、足袋が床に縫いとめられたかのようだ。 「当てるつもりで投げたんじゃないんだが……ごめんな、怖かったな」  おもむろに立って、きり丸の目の前まで来ると、顔をそのマメだらけの厚い手でぎゅっ と挟まれた。こっちを向け、と言われている気がして、そこでようやく焦点を文次郎へ合 わせる。すると、ふっ、と気の抜けたように笑って、文次郎はきり丸の頭へ手を移動させ た。 「それで? どういった用向きでここへ?」  また、長次とは違うリズムで頭を撫でられる。それに合わせて、徐々に呼吸の仕方を思 い出した。 「っあ、中在家先輩が、潮江先輩へ、って、これを」  知らず手に握りしめていて、くしゃくしゃになった紙切れを渡す。歪んだ、長次の綺麗 な字を見るだけで、どうしてか泣きたくなった。 「あー……これの返却って一昨日だったのか……。あと一章読めてねぇんだけどなぁ」  返却期限延ばしてもらうか、とぼやきながら、文次郎は部屋の奥へ入っていく。どこに 居ればいいのだろう、ときり丸が迷っていると、まるで思考を読み取ったかのようなタイ ミングで、入ってもいいぞ、と声がした。  その言葉に甘えて、外の光が届かないところまで足を踏み入れる。墨の匂いと鉄の饐え た臭い、火薬や白粉の匂いもした。ああ、紛れもなくあの二人の先輩の部屋なのだ、と思 う。きっと、自分たちでは気付かないが、俺達三人の部屋も何か匂いがするのかもしれな い。  ふと文机の上へ目が滑った。どうやら、開いて置かれているのは会計委員会の帳簿のよ うだ。決して上手くないが、読めないほどでもない字が、金額の羅列を綴っている。こん な無防備に置いていていいのか、と思ったが、よく見ると、これは帳簿本体ではなくて計 算帳だ。なら、大丈夫か。 「あの、これ、潮江先輩の字っすか?」 「ん? ああ、そうだ」  なかなか計算が合わなくてなぁ、と文次郎は転寝した理由を洩らしながら部屋の奥から 出てきた。目当ての本は見つかったらしい。  文次郎がきり丸のすぐ横に来るのを待って、指さしながら言った。 「先輩、ここが繰り上がってません」 「……ん? ――あ、」  目を見開くと、文次郎は手に持った本をきり丸に預けて、文机の前へ座った。そして、 猛然と計算を始め、ものの三十秒も経たないうちに、また元の位置に筆を置く。晴れ晴れ とした顔を見る限り、どうやら帳尻は合ったらしい。 「ありがとう、助かった」  本をきり丸から受け取って立ち上がると、計算帳も持って、二人一緒に部屋を出た。つ いでに会計室にも寄るつもりなのだろう。すとすと、と板張りの床を二人で歩く。 「いいえ、俺、金の絡む計算なら自信あるんで!」  普段怒鳴っている印象しかない文次郎からの素直な感謝に、若干照れくさくなって、わ ざと明るい声を出した。 「……。……そうか」  その応答が返るまで、若干空いた不自然な空白を、不思議に思うこともなかったけれど。 「……でも、僕、きっときり丸は叱って欲しかったんだと思います」  きり丸が出て行ったのを黙って見送っていた怪士丸が、唐突に口を開いた。誰に向かっ て言ったわけでもなかったけれど、明らかにそれは長次へ話しかけていた。 「出て行くとき、きり丸、悲しそうでした……」 「先輩たちの位置からじゃ判んなかったかもしれませんが。俺も見ました」  今は別の本棚の影にいた久作も、手に持った返却本のことなど忘れたかのように助言す る。こういう場合は仕事は後回し、と言わんばかりだ。 「普通、撫でてもらったら嬉しいんじゃないかと思うんすけど」  長次は、墨を擦る手を止めて、二人を手招きした。怪士丸と久作は、一瞬顔を見合わせ たけれど、特に何を言うでもなく、長次の机の前へ立つ。何をされるのか、と若干怯えて いたが、次の瞬間、そんな感情は粉々に粉砕された。 「……あの、」 「な、中在家先輩……?」  手に付いた墨を懐紙で拭って、長次は二人の頭を同時に撫でていた。  初めは戸惑ったように体が強張っていたが、次第に、長次の目が「ありがとう」と言っ ていることに気づき、風船の空気が抜けるように笑った。 「……先輩、僕ら幸せ者ですね」 「わっ?」  急に腹に腕が回されたかと思うと、二人は同時にバランスを後ろに崩す。久作が返却本 を胸に抱えていたので、大惨事にはならなかったが。 「なにするんですか、不破先輩!」  怒ったように久作が小さく叫ぶ。怪士丸と久作は、それぞれ不破の膝の上へ納まってい た。張本人の雷蔵は、そんな抗議には耳を貸さない、とばかりに、二人を抱きしめる力を 少しだけ強くする。 「こんないい後輩に恵まれるとは」  そんな言葉に、怪士丸は青白い頬にすっと紅を引いたし、久作はと言えば暴れていたの が完全に動きを止めた。しかし、すぐに、それよりも雷蔵の髪の毛がくすぐったくなった らしく、小さい二人は笑いだす。  長次は、初めに撫でていたのは私だ、と少し不満そうな眼をしたものの、楽しそうな二 人の様子を見て、仕方ないと小さく笑った。そして、筆に墨を含ませ始める。  そして、その筆が萎びた紙と触れた瞬間、木と木の擦れる音がして、図書室の障子が体 半分くらい開いた。長次以外の全員が、一斉に視線を向けた先には。 「あ、きり丸!」 「ただいま帰りましたー」  雷蔵に抱きしめられたまま、怪士丸が真っ先に声を上げた。そのまま雷蔵の腕を潜り抜 けていこうとするが、それは案外筋肉質な腕に阻まれる。もう、離して下さいよー、とじ たばた足をばたつかせるが、抵抗になっていない。 「……なにやってんだ、雷蔵」 「え、潮江先輩も?」  体半分開いていた障子が、さらに体一つ分横へ滑った。そこに現れた深緑色の制服に、 しかし雷蔵は驚いた様子もなく答える。 「自分の後輩を可愛がってるところですけど」 「……おまえな」  呆れたように嘆息して、文次郎はまっすぐに長次の許へ歩いて行く。期限延ばしてくん ねぇか、と本を差し出した彼に、長次は判っていたとばかりに黙って延長申込用紙を差し 出した。行動を読まれることにもう慣れているな、と文次郎は自分を笑う。  きり丸は、とりあえず図書室の中に入って障子を閉めたものの、いまいちどこに居てい いのか判らないというかのように出入り口付近をうろうろしていた。 「おいで」 「……っ、」  そんなきり丸を、雷蔵はこともなげに手招きする。彼の長い腕の届く範囲まで、きまり 悪そうに寄ってきた小さい体を、勢い付けて抱きよせた。うわ、と上がった悲鳴は、ちょ うど久作と怪士丸との間に納まって、落ち着かなさそうにごそごそ動く。 「ところで、お前は何やってんだ、長次」  延長申込用紙に、長次の筆を借りて記入を終えた文次郎が、彼の手元を覗き込んで言う。  萎びた紙に、古い時代の歌を、いつもの長次の字ではなく、わざと崩した草書体で。 「……きり丸」 「はい?」  雷蔵は、その長次の声が聞こえる数瞬前に、きり丸の真上で組んでいた自らの手をする りと解いていた。膝から立ち上がったきり丸が、その雷蔵の行動に気付かなかったほど、 自然に。  自分をあんなに離さなかったのに、と怪士丸が雷蔵を見上げると、見たこともない表情 できり丸と長次を見やっていた。優しい人だけれど、こんなに優しい目をしたこの人を、 果たして見たことがあっただろうか。  机を回りこんで、長次は目線をきり丸に合わせるようにしゃがみ込んだ。 「……これを」 「なんすか? ……歌?」  差し出された紙をためすがめつし、不思議そうな声色のきり丸を、 「え、……っ、」  長次は黙って抱きしめた。  完全にフリーズしたきり丸に、態勢を変えることなく話しかける。とん、とん、と背中 を叩かれて、ああ、心臓の音みたいだ、と思った。 「……さっきはすまなかった。これからは、きちんと怒る」 「あ、……あの、すいませんでした、」 「それから、その紙は持っていけ。古い紙に書き付けた。だから匂いもこの図書室のそれ だ」  好きなのだろう、と言われて、もうどう返事をすればいいか判らなくなる。確かに、紙 と墨の、古びて温かい匂いはどこか安心する。……ちょうど、今の長次のように。  返事の代わりに、十歳の体の精一杯で、広い背中に抱きついた。