※08' 07,25の続きです。よろしければそちらからお読み下さい。  文次郎、と名を呼ばれた。  思わず素で頭を抱えたくなるほど振り向きたくなかったのだが、生憎と声を掛けてきた 人が立花仙蔵である以上、無視はできない。  いや、無視することだけならできるだろう。ただし、そのあとの様々な報復に耐えられ るかどうか、の分岐点が大口を開けて待ち構えているけれど。……耐えられはするが、わ ざわざ自分から死地へ歩んでは行かない。それは、あまりにも愚かすぎる。 「なんだよ」  そういうわけで返答はするが、嫌々答えています、という雰囲気を前面に出した。せめ てもの抵抗だったのだが、 「……もう一度名を呼ぶところから始めてやろうか?」  絶対零度の冷やかさで応酬されてしまった。つまり、返答の態度が悪い、と不興を買っ たということだ。 「や、それはいい」 「では返答は?」 「……何用にございましょうか」  完全な棒読みだったけれど、これ以上やってもくだらないと判断したのか、仙蔵は話を 先へ進める。 「先ほど、食堂で伊作に会ってな、」  ああ、だから思わず素で頭を抱えたくなるほど振り向きたくなかったのだ。  この展開が読めていただけに、逃げようかどうしようか真剣に考える。しかし、今自分 は手負いで、夕餉に行きたくはなかったから空腹で(後でおばちゃんに握り飯でも貰おう かと思っていた)、そして一番悪いことに、相手が仙蔵である。 「……判ってる、治療されに来い、というのだろう」  結局、白旗を上げることにした。どう考えても、分が悪いことこの上ない。  ちなみに、文次郎は長屋から少し離れた生垣の中に埋まっている。まあ、それは今の状 況を見ただけの話であって、実際、仙蔵に声を掛けられるまでは完全に隠れていた。どう して仙蔵が見つけられたのかといえば、ひとえに怪我をしているから気配が消え切ってい なかったためである。  きっと、夕餉に行く誰かさんと鉢合わせたくなかったのだろう、と仙蔵は他人事のよう に推測した。いや、他人事なのだ、本来なら。しかし、頼まれてしまった以上、関わらね ばならない。 「ふん、ならば話は早い。言うに事欠いて伊作の奴、私にお前を引っ張って来いと言って きたのだからな」 「そりゃ、俺が素直に行くとは思えんかったんだろう」  そして仙蔵を迎えに寄越した判断は正しい。現に今こうして、生垣の中から引きずり出 され、しぶしぶ六年長屋の伊作たちの部屋へ向かっている。 「……ったく、伊作はいったい何を見返りに差し出したのやら」 「ん? それは私と伊作だけの密約だからな。教えてやらん」  にっこり、と白い肌を長屋から漏れる薄明かりに浮かばせて、仙蔵はいたく上機嫌だ。 これは、なにか特殊な薬でも貰う算段でもつけたに違いない。  基本的に、留三郎とやりあった後は二人揃って保健室、もしくは伊作のところへ行き、 手当てしてもらうのが通例である。学園の備品だって無尽蔵じゃないんだからいい加減に しろ、とは毎回聞かされる伊作の言だが、怪我を放っておくともっと怒られるので、若干 やさぐれ気味に手当てされに行くのだ。  しかし、どちらかがあまりにも一方的にやられた場合や、発端があまりにも下らなさす ぎたりすると、どちらかが捻くれて、治療に行かないことがある。今回は後者の理由で、 文次郎が伊作のところへ行かなかった。  一年間で、片手で足りるほどだが起こるこの事態には、誰かを遣わして連れて来てもら う、というのが伊作の方針だ。  本当ならば自分から来るまで放っておくべきなのだが、それでは傷の具合が悪化してし まうかもしれない。かといって、伊作自らが治療しに行こうと思っても、相手は気まずさ から隠れてしまうことが多いので、見つけるのも骨である。  そこで、学園屈指の実力者たちに捜索を頼む。すると、皆もいい加減六年も同じ屋根の 下で過ごしているのだ、多くを言わなくても連行してきてくれる。交換条件は出したり出 さなかったり色々だが、仙蔵を動かす場合には出すことの方が多い。人からの頼まれ事を 無碍にはしないけれど、そこは作法委員会の頂点を務める仙蔵のこと、なにか貰えるチャ ンスがあれば逃さないのだ。 「あー、こりゃ仙蔵に頼んで正解だった」 「では、役目は果たしたからな、伊作」 「うん。そうだな、来週にもできると思うから取りにおいでよ」 「判った」  恐らく取引した薬の話であろう、終始にこやかに交わされた会話は、仙蔵が伊作の部屋 を出て、とん、と障子が閉まったときにぷつりと切れた。 「さーて」  そして、会話の相手は文次郎へと変わる。全力で目を逸らしたい。が、所詮叶わぬ夢で ある。 「文次郎、どうして今回すぐ来なかったの?」  と言いつつ、まずは手始めに目に見える外傷からてきぱきと手当を始める。ぬるま湯に 浸した布で丁寧にこびり付いた血を拭い、消毒をし、薬を塗って包帯を巻く。 「留さんはちゃんと来たのに、なッ」  ぎゅ、と勢いよく包帯を締め付けられた。 「ぐっ……」  いかに多く怪我をしてきたとはいえ、さすがに痛みに慣れることはない。というか、慣 れてしまっては、一番自分に警鐘を鳴らしてくれる感覚を失うことになる。それは、忍と しては致命的だ。だから、痛みに呻くことは恥ずかしくもなんともない。  いったん、伊作は文次郎から体一つ分くらい離れると、おもむろに言い放った。 「じゃあ、ちょっとアンダー脱いでくれる?」 「……何で判るんだか」 「動きとかね。どこかが痛いと、そこをあまり動かさないようにするもんなんだよ、人間 って。それに、仙蔵に頼んで正解だった、って言ったでしょ」  緩慢な動作で、文次郎は素直に黒地のアンダーシャツを脱ぎ去った。そこには。 「ん、ちょっと想像より酷いかな? なんにせよ、早めに来て欲しかったんだよね。留さ んも、そこそこ酷かったからさ」  外からでも判る、狭く深く突かれたであろう擦過傷があった。もしかしたら、内臓にも 影響があるかもしれないくらいの。 「それで、仙蔵を寄越したわけか」 「そう。仙蔵なら、一番早く文次を見つけてくれると思ったから」  全く、恐れ入る。そして、有難い話だ。 「悪い」 「うん。あ、でも、お礼を言うべきはもう一人いるよ」  は? と聞き返そうと思って、即座に思いとどまる。廊下を、すとすとと歩く人間の気 配がした。軋む板の重さからいって、もうあまり大人と遜色ないくらいの、 「おい伊作、文次郎は見つかっ――」  この男の気配が。 「――っと、やっぱり、そんな傷になってやがったか」  自分一人がぎりぎり入れるくらいに障子をあけて、体を割り込ませたら即座に閉めた。 手には、小さい土鍋を持っている。幾度か食堂で見かけた絵柄だから、食堂のおばちゃん が作ったものだろうか。 「んだよ、これ付けたのはお前だぞ」 「判ってるっての。だから、これ持ってきただろうが」  かぽ、と土鍋の蓋を開けると、もくもくと白い湯気が立って、とろけたお米の匂いがし た。 「……粥?」 「ああ。攻撃したときの感触として、内臓までイッたかな、と思ったから。消化に負担掛 けないもんにしねぇと。で、伊作、」 「うん、留さんの判断は正しかったみたい。ちょっとこれは治るのに時間かかるかもね。 あ、文次、これも一緒に飲んで」  直径五分ほどの丸薬を手渡された。効能は、内臓への治療と消化促進、といったところ だろうか。  二人とも、食堂に文次郎が姿を見せなかったのを知っている。ということは、文次郎の 腹には今何も入っていないこともばれている。実際には、お腹の空いた感触は痛みのため に認識していないけれど、何か腹に入れなければ、治るものも治らない。  文次郎は軋む体を出来る限り正すと、 「……頂きます」  小さく頭を下げて、レンゲを手に取った。 ※じ、時代考証とか……すみませんスルーでお願いします→アンダー、レンゲ。  ちなみに「五分」は「約1.5cm」です。というか、丸薬ってどのくらいがメジャー  な大きさですか……。