トーストのこんがり焼けた匂いと共に、妙に下町の裏工場を思わせる油の匂いが混じっ ては離れていく。トースターの蓋が最近軋むようになってきたなぁと思いつつ、ナル彦は 慣れてしまったこの奇妙な匂いを意識的に追い払ってトースターにかじりついた。 「ライ君、朝ご飯だよ」 「んー」 「今日はエイ君が動けないからボクの有り合わせだけど」  ふすま一つ隔てたところに居る弟――ライトに声を掛けるが、一向に出てくる気配はな い。トーストを加えたまま器用に溜め息をつき、口の端に研究の末編み出した自分を一番 美しく見せれる笑みを乗せて、そのふすまを開く。ちなみにそこは、ここに住む彼ら三人 の寝室だった。 「ラーイー君ってば」 「……あー? 何さナル兄さん、今何時――」  げっ、とライトが反射的に上げた声は兄の咄嗟に口に当てられた手によって行き場を失 う。勢い良く起き上がったその反動も手伝って、ライトは結果的にナル彦の腕に収まる形 になった。 「はいはい静かにねー、後ホントにまずいと思うよ時間」 「何で静かにしなきゃいけな」  ライトは言葉を途中で切らざるを得なかった。誰だって目の前にぬっとモノが現れたら 一瞬身を引くだろう。見えた線の細いナル彦の指先を追うと、そこには眉根を寄せたまま 眠っているライトのもう一人の兄――泳人の姿があった。 「昨日高校の同級生と呑んだんだって。まず起きないと思うけど念のためにね」  ライトはそのありありと苦しさを浮き立たせる寝顔に嘆息すると、急いで学校への準備 を整え始めた。無論、とうに寝室は閉め切られている。 「にしてもナル兄さん、どうしてもっと早く起こしてくれなかったの!」 「起こしたよー。でもライ君が発明で夜更かししてるのが悪いんだし、――まぁギリギリ まで寝かせてあげる兄の優しさに感謝してくれ!」  誰がするか、と咄嗟に口走る。が、次の相手に向ける言葉はそれとは裏腹だった。 「うん有り難うでも次からは頼むからひっぱたいてでもどうにかして起こして」  けれど完全に棒読み。ちなみに判ると思うが、自分一人で起きようという考えは皆無で ある。 「ああそうかい判ったよマイブラザー、明日こそはこのナル彦の美声によってものの見事 に爽やかな目覚めをプレゼントしようじゃないか!」 「誰が起きるかー!」  ついに、いや意外とあっさり沸点を突破した。  と全力で突っ込まれながらも、ナル彦は制服姿になった弟にマーガリンとイチゴジャム を塗ったトーストを差し出すことを忘れない。ありがと、とライトも通常のテンションに 感情を戻して受け取った。 「じゃあ行って来るね!」 「はい行ってらっしゃい。今日は遅いの?」 「んー、学級委員会あるから多分」 「判った。では早く愛しの兄に抱かれるために帰っておい」  ばんっ!  けたたましい音を立てて閉まり、目と鼻の先で寸止めされたドアに向けて、しかし更に ナル彦は喋り続ける。 「ふふふ、そんな事したって僕には判ってるんだよ、実はまだそこに居てこの玲瓏且つ流 麗な声を聞いているんだろうライ君!」  居るわけがない。     「んぁ……? ここどこ、」 「ふむ、強いて言うなら愛しい兄と添い寝中かな」 「は? ――ぅおあ!」  閉め切ったカーテンの向こうで暢気に昼の十二時を告げるサイレンがなっている中、泳 人は自分の思いつく限り結構良くない状況での寝覚めを迎えた。 「なんっ、兄貴、……え?」  上半身を起こしたまま、きょと、と左右を見る泳人に向かい、ナル彦はその横に突っ伏 してとつとつと昨日からの流れを説明する。 「つまりね、」  昨日の夜の事。  仕事から帰り、中々寝付こうとしないライトを無理矢理布団に追いやって一息ついてい た時、ふいに玄関を控えめに叩く音がした。何かと思いドアを開けると、そこには泳人を 担いだ高校生時の友人が困った笑顔を浮かべて立っていたのだ。 「確かハジメ君……だっけ。前にも来たことあったよね」 「うわ、ハジメが? そっか、昨日あのまま呑んで――っ痛」 「二日酔いー。薬ならどこかにあったと思うよ。おお、何なら口移しで飲ませてあげよむ ぶっ!」  そして既に意識の朦朧としている泳人をどうにか寝かせて、彼は帰っていった。自分が 寝たのはその後だ、とナル彦はぶつけられた枕を引き剥がしながら語り終える。 「で、頑張ったお兄さんはこれから寝ようと思ってねー。六時くらいに起こしてくれ。あ 、ライトは委員会で遅くな、るって……言っ……よ」  すう、と一筋息を吐くとそのまま眠りに引きずり込まれていった。  昨日そんなに遅くまで起きていて、しかもこの状況を見る限り寝坊しがちなライトまで 送り出してくれたらしい兄の寝顔に泳人はそっと微笑んだ。太陽は南の空に座しているの だろうが、この遮光カーテンを透けては来ない。薄い光が部屋をなぞる。  逡巡して、とりあえず兄の横たわる体に毛布を掛けると、薬を探しに立ち上がった。  おやつはライトの好きなシュークリームにでもしようか。そうそう、ナル彦も小さい頃 からそれはそれは好きだったはずだから。