小さい花が咲いていた。  グラウンド、サードの位置に独りぼっちで咲いていたそれを、篠岡は伸ばした右手で摘 み取った。 出会ってから一年が過ぎようとしている。  いや、むしろこんなに仲のいい皆が、出会ってからまだ一年も経っていないことに驚く ばかりだ。  篠岡は、いつも通り、つまりこの一年してきたように、おにぎりの具材を決めようとベ ンチへ向かう。  昨日の勝者は誰だったのか、想像を巡らせるこの時間が、篠岡は好きだった。夏前には 田島くんが二連勝したこともあったっけ、とぼんやり思考を流す。もう夏の始まりの頃に は、例え田島であろうとなかろうと、二連勝を成し遂げる人間は居なくなった。いや、難 しくなったと言うべきか。これから二連勝する人が現れないとも限らないし。  つまり、体力思考力共に育てられたということなのだ。野球の場ではさておき、単純な 遊びになると、皆コツを掴んでゲームが出来るようになった。まったく、百枝の手腕には 感服する。  そしてそれが、総じて野球のためになると知っている。  野球漬けの一年が過ぎた。春が来る。新しい風が、新入生を運んでくることだろう。こ ちらも迎える準備はできた。少し、春一番並みの風が頬に痛かったけれど。  いつものように部活の終わりを告げる号令がかかった。  特に、特筆すべきこともない、普通の一日が過ぎたわけだ。篠岡にとっては、実は普通 の一日でもなかったのだが、まぁそれが表立って騒がれることはないだろう。  なぜなら、その類のイベントは、いつも篠岡の発言から始まっていたからである。  だから、篠岡は何も言う気はなかった。ただ、いつもは一足先に帰っているけれど、今 日くらいは部員のみんなと帰ろうかな、と思うくらいの。 「あ、そうだ千代ちゃん」 「はい?」  日誌を百枝に渡しに行くと、彼女は小さな不織布の包みを、飾り気のないエナメルのス ポーツバッグから取り出した。 「今日は千代ちゃんの大切な日よね」  はい、と篠岡の手に包みが落とされる。一瞬状況が飲み込めず、脳ごと固まりそうにな ったが、ようやっと目の前に座る突き抜けた青空のような人が何を言っているかを理解し た。 「あ、ありがとうございます!」  舞い上がった状態で、とにもかくにもお礼を言うと、いつものようににっこり笑って、 「おめでとう!」  と返された。百枝の周りだけ、ちょっと気温が上がった気さえするほどの。志賀先生と 私からね、と子供のような表情で笑う。  包みの端から、きらきらした色のキャンディーが覗いていた。 「あ、れ?」  しかし、いつも部員が溜まっているベンチへ戻ると、そこは誰かが居た形跡すらなかっ た。綺麗に片づけていくのは常のことだとしても、こんなに早くに撤収していることなど 初めてだ。 「帰ったのかなぁ……」  駐輪場の方へ行っても、十台の自転車を見つけることは出来なかった。というか、あれ だけ固まって駐輪していれば嫌でも目立つものが丸ごと消えているわけだから、逆に目立 っている。  篠岡の、諦めて駅へ歩を進める判断は即座に下された。  きっとみんなで示し合わせた用事があったんだろうなぁ、と思う。ちょっと残念だけれ ど、今日はそういう日だったということだ。自分の願いなど、さして重要なことでもなか ったわけだし。  などと考えながら、駅へ向かう。いつもの分かれ道であるコンビニへ行ってみたりもし たが、誰の姿もない。  これは本当に帰ったのだな、と更に諦めがついて、ならば早く家へ帰って母親の手伝い をしなければ、と駅のロータリーへ入る。夜の帳はちょうど今降り切って、ホームの明か りが目に痛い。その手前のコンビニなど、蛍光灯の光が眩しくて、 「――え?」  逆光になって人影も見えない。 「遅せーぞ、しのーかー!」 「バッカ、俺らと違ってマネジってのは色々と仕事が、」 「こっちこっちー」  嘘だ、どうして、そればかりが頭の中をぐるぐると競争でもしているみたいに駆け巡っ て、一歩も光のある方へ進めなくなった。  歩みを止めた篠岡を見て、途端にわらわらと野郎共が群がっていく。コンビニの目の前 に路上駐車された十台の自転車はそのままに。 「どうしたの?」 「おいでって言ったのにー」 「し、のおか、さん?」  投げかけられる言葉に温度が宿っている。春がようやっと始まったばかりの、けれどま だまだ寒いそんな季節の夜に、こんなに暖かいなんて。 「えっと、みんな、どうしてこんなところに?」  ようやっと、まともに頭が回り始めた。だってここは篠岡がいつも使っている駅だ。当 然、皆の家からはかなり離れているし、一番遠い人は多分30分も自転車を漕がないと家 へは帰れないだろう。おまけに、こんな時間だ。 「何か用事があったの、かな?」  まさか、と思う気持ちもないではなかったが、いつも忙しい彼らのこと、人の記念日な ど一々覚えていないだろう。ならば、駅前か、または違う駅のどこかに用事があったと考 えた方が適切だ。  が。 「え、なに、」  するりと篠岡の目の前に立った田島が、まっすぐに篠岡を指さした。ピッ、と音がしそ うなほど、迷いなく。 「や、用事は? っていうから。俺らが用事あったのは、しのーか」 「わ、田島、人を指さすなよ」  即座に花井の指導が入ったけれど、もう一回混乱した篠岡の脳内には届いていない。  用事は、自分にあった。そしてこの場所、このタイミング。 「篠岡、待ち伏せみたいなことしたけど、」  もう間違いない。 「これ、俺らから、な」  阿部の一言で、荷物持ちになっていた巣山が後ろの方からひょっこり顔を出した。てっ きりコンビニの袋が出てくるのだろうと思えば、 「うわぁ、」  彼の差し出したのは、オレンジと黄色を基調にラッピングされた、抱えるほどの花束だ った。巣山が持っている分には判らなかったが、篠岡の手に渡ると大きさがわかる。 「あんまり金かけらんなかったから、ちょっと花の数自体は少ない気もするけどな」  泉の茶化すような、それでいてきちんと意味を読み取れば謝っている声が飛ぶ。そうだ ね、と泉に同意した栄口は、きっとその裏の意味で頷いたのだろう。  大丈夫、判っている。  だから篠岡は、二人に向かって首を振った。 「ううん、すっごく嬉しい。ありが」 「だめだよ篠岡、もうちょっと待ってて」  ありがとう、と言いかけた唇が止まる。水谷が自らの唇に人差し指を立てて、静かにし てて。と言っていた。  街灯の光が篠岡の見開かれた目に反射して、きらきら光っている。百枝と志賀にもらっ た、あのキャンディにも劣らない。 「そうだよ、まだ俺たち肝心なこと言ってないのに」 「お礼はその後で、ね」  西広と沖の追加を受けて、水谷はだよねぇ、と微笑むと、十人全員を見渡した。 「っせーの、」 「「「「「「「「「「誕生日おめでとう!!」」」」」」」」」」  ありがとう、は掠れて言えなかったけれど、ぎゅうっと抱きしめた花束が代わりにその 言葉を表していた。  新しい風が入ってくる。  でも、この一年頑張ってきたこのメンバーが、褪せることは決してない。 ※浜田が出資金額一番高いです。駅には行けなかったけど(バイトかなにか)  発案は水谷。だって好きな子だもんね☆  遅刻ごめんなさい千代ちゃん……。