「辰太郎、起きてる?」 「んー、起きてる……」  しん、と静まり返った部屋。ベッドサイドに置かれた時計は、デジタル表示で午前五時。  まだ太陽の光そのものは世界に差し込んでこない、夕暮れにも似た空の色が眼前に広が っている。  ベッドの上で上半身を起こすと、ちょうど窓に顔が出せる。サッシに当てた左手から、 まどろみの熱がぐんぐん奪われていくのが判った。小さく伸びをして、大きく息をつく。 「本当に? ……あら、今日は起きたのね」  カチャリ、と金属の音がして、ドアが人の体半分くらい開いた。 「うん。おはよう」 「おはよう。そのまま後ろに倒れこんじゃわないでよ」  朝練のために、西広は毎朝早く起きる。しかし、それより早く起きて、なおかつ朝ごは んや弁当を作ってくれている母親にはただただ感謝するしかない。  冬場はどうしても布団の中のぬくもりが心地よすぎて、ついつい二度寝することもある けれど、今日ばかりはきちんと起きるべく足を布団から引き抜いた。冷やり、とした空気 がすぐに纏わりついてくる。  TシャツとYシャツ、セーターまで着こんで、やっと食卓へ顔を出す。とたんに、白米 の炊けた優しい匂いが漂ってきて、勝手に腹がきゅう、と鳴った。 「いただきます」  どうぞ、と返ってくる声を聞いてから、箸に手を伸ばす。小さいころからずっと、西広 が癖にしてきたことだ。よく、それを見た親戚が、きちんとしてるね、と褒めてくれたも のだが、正直西広にその自覚はない。ただ、習慣として、その返事を聞かずに食べ始める のがなんとなくしっくりこないだけだ。  いつもと同じ、優しい朝だった。 「お兄ちゃん!」  けれど、優しい朝は今日だけ形を変える。 「え、……ええ? 今何時だと思ってるの!?」  右手に箸、左手に茶碗という体で振り返ると、そこには小さな妹が立っていた。その姿 を認めた瞬間、がたん、と音を立てて立ち上がる。  すると、そんな西広を見て、妹がにっこり笑った。 「やったー! お兄ちゃんびっくりしてる!」 「成功ね」  人間、あまりにイレギュラーなことが起こると固まってしまうらしい。しかし、背後か ら聞こえた母親の台詞を聞く限り、今目の前にいる妹は夢でも何でもないようだ。  思えば、きちんとパジャマの上からカーディガンやらパーカーやら羽織っているのだか ら、これは母親が起こしたと考えるべきだろう。まだ一人でそこまで出来るようになった とは思えない。 「えっと、何事?」  ようやく質問することを思い出した西広は、とりあえず朝ごはんを続けることにした。 地味に朝の時間は限られているのだ。 「あらやだ辰太郎。今日、誕生日じゃない」 「は?」  またしても箸が止まった。二月十日、もちろん覚えているけれど。 「お兄ちゃん、おめでとー」  隣の椅子によじ登ってきた妹が、折り紙でできたメダルを差し出してきた。慌てて妹に 向きなおると、どうやら裏に丸めたセロファンテープが貼ってあるらしく、ぺた、と西広 の左胸に押し付けてくる。 「ありがとう」 「どーいしたまして」 「違うよ、どういたしまして」  続く会話が温かい。こんなふうに迎えた誕生日は、この16年間で初めてだった。 「忘れてたの?」  母親が、味噌汁をよそいながら背中越しに尋ねる。朝は赤味噌。これも、ずっと昔から 変わらないことの一つ。 「ううん。でも、まさか朝っぱらから祝ってもらえるとは思ってなくて。違う理由で早起 きしたのかと思ってたから」  けれど、そんな変わらない日常の中に、誕生日が混ざっている。それを祝ってくれる人 たちがいる。 「ああ、それで驚いてたのね。……さ、朝練遅れるわよ」  壁掛け時計を見れば、結構いい時間になっていた。慌てて朝ごはんに手を伸ばす。思え ば食事の速さも野球部で学んだことの一つかもしれない、と思いつつ、食べ終えてバッグ を手にする。  そんな西広に、妹を着替えさせるために連れて行きざま、くるりと母親が振りかえった。 「今日ね、お父さん早く帰ってくるみたいよ」  ケーキ付きで、と言った彼女は、なんだかすこし若く見えた。  吐く息が白く濁っては、瞬く間に後ろへ流れていく。  自転車を漕ぐ足は、迷いなく加速していた。 ※なんか西広は家族ネタになりやすいらしい……。なんでだ。そして朝が少し弱かったら  いいという妄想。  遅刻ごめんなさい!