「おはよー!」  聞き覚えのある声がなにやら言っているな、と思った。けれど、誰の声だったか考える までには至らない。 なぜなら、実際その人物が目の前に現れるまで五秒とかからなかっ たからだ。  キィッ、と金属が擦れて撓んだ音が、静かな世界を引っ掻き回す。 「おー」 「はよ」  駐輪場に偶然揃った一年七組男勢は短く挨拶を交わし、ちらりと視線を絡ませると、無 言のまま急いで同じ方向へ足を向けた。  吐く息どころか、その息の触れたマフラーさえ凍るような気温。当然、みんなの手には 手袋(又は軍手)常備だが、それにしてもいかんせん寒すぎた。冬の間だけヒーターを入 れてもらった部室へと、足が忙しなく動く。  いつでも見られるような朝の部活開始前だけれど、今日は少しだけ特別だった。三箇日 を終え、年明け第一回目の部活なのである。しかし実は、元旦にみんな揃って初詣に行っ たので、顔を合わせるのは年明け初、というわけではない。よって、「明けましておめで とう」の挨拶は無しとなった。 「うわ、」  寒いのでなるべくなら口を開きたくなかったであろう花井だが、部室まであと十メート ルという段になって遂に声を発した。 「水谷ぃ、お前まったバッグの中そんなぐしゃぐしゃにして……」  チャックの開いて中の見える水谷のカバンの中身に、ツッコまざるを得なかったらしい。 「おいおい、今気づいたのかよ……」  花井の背中に向かって、呆れたように阿部が呟く。つまり、阿部はそのバッグの惨状を 知りつつ黙っていたわけだ。  その横で、二人の視線に抗議するがごとく、水谷は不満げな声を上げた。 「そんなこと言ったって、今日は出がけにバタバタしちゃってさー……。もう、二人に文 句言われたのもきよえのせいだー」  きよえ、の単語に、もう阿部も花井も疑問を返すことはない。数か月同じクラスに居て 会話もしていれば、彼が彼の母親をそのように呼んでいるのは周知の事実だからだ。 「なんだよ、そんなに忙しかったのか?」 「うん。っていうかね、どうせ今日だって遅いかもしれないけど練習終わったらちゃんと 帰るんだからさ、祝うのはその後にしてくれたっていいと思わない?」  部室の扉に手を掛け、そのまま振り返ってそんなことを言う。 「何を?」  綺麗に目的語の抜けた日本語を喋った水谷に対して、実に的確なツッコミを飛ばした阿 部は、訊いたことを後悔も喜びもしなかったけれど、 「へ? ああ、今日俺の、」  でもやはり、訊いてよかったと思った。 「誕生日おめでとー水谷!!」 「ぅうわ!?」  朝から聞きたくはない音量の声と共に、いきなり部室の内側から扉が開いて、物理法則 どおりに水谷が倒れこんだ。 「っ痛ぁー……、もー、なにすんの田島!」 「いやゴメン、ドアの外で水谷っぽい声がしたから」 「推測で開けたのかよ……」  今日はよく阿部のこんなトーンの声を聞くなぁ、と床に座り込んだままぼんやりしてい たら、目の前にすっと手が差し出された。 「ほら水谷、掴まりなよ」  少し掠れた浅めの声の持ち主は、水谷が行動を起こす前に、二の腕を掴んで引っ張り上 げてくれた。蛍光灯に透けた茶色の髪が小さく揺れる。それを見ていたら、ちゃんと立て と文句を言われた。 「ありがと、栄口」 「いいえー」 「それはそうと、お前今日誕生日だったのか?」  後ろ手に扉を閉めた花井が、頭に巻いていたタオルをとりながら疑問を挟む。しかし、 うん、と水谷が頷く前に、田島が抗議の声を上げた。 「なんだよ、知らねぇのー!?」 「……阿部、知ってた?」  突然のフリにもかかわらず、阿部は、あー、と迷うような声を出して、右手をぱたりと 水谷の方へ向けた。 「こいつが、年末ラストの部活が終わった時に言ってたような言ってなかったような」 「そう! 俺それ覚えてた! あれ、……今日、だよな?」 「うん。ありがとね、田島」  わざと初詣の時には言わなかったんだ、どれくらい覚えてるかな、って。  悪戯っぽく笑った水谷の顔は、阿部としては、今日が誕生日でないなら即座につねって やりたいくらい小憎たらしいものだったが、 「あー、悪いな水谷、俺覚えてなくて」  真剣に詫びる花井の言葉に、即座に消え失せたので、まぁ良しとした。ついでにフォロ ーも入れておく。 「いや、多分お前、こいつが誕生日云々の話してたとき居なかったと思う。モモカンに呼 ばれてて」 「そう……だった、か?」 「や、俺もそこまで覚えてないけど……。まぁ、そんな深刻にならないでよ花井。俺とし ては遊び半分だからさ」  カラッとした湿度ゼロパーセントの笑い顔を目の前にして、ようやっと花井も同じ笑顔 の伝染を受けた。 「じゃあ、改めておめでとう」 「改まる必要なんてあるか? ……まぁ、めでたいに変わりねぇけど」  阿部、と窘める花井の圧力に結局は負けて、水谷は小さいおめでとうを聞くことができ た。  そのあと部室に入ってきた沖と西広は覚えていて、開口一番に祝ってくれた。巣山は咄 嗟には思い出せなかったようだけれど、沖たちの言葉を聞いて記憶を掘り返せたらしく、 続けておめでとうを渡してもらえた。 「ねぇ、栄口」 「な、なに」 「栄口は言ってくれないのー?」 「……ばか、日付変わったときにメールしただろ」 「えー、やっぱ声で聞きたい」 「っ、――、」 「……おめでと」 ※大遅刻、誠に申し訳ありません。最後だけ水栄風味。あくまで風味。(大事なことなの で2回言いm(ry)