「これ、やるよ」  無造作に放り投げられた薄いガムの意味を、考えたことがあっただろうか。 ひょこ、と擬音の付くくらい唐突に、机の地平線から出てきた茶色く揺れる髪を、間髪 入れずにこれでもかと引っ張った。 「いっ……た! 痛い痛い! 止めて阿部ー!」 「あー……別にこのまま引っ張ってても俺はいいんだけどなー。 なぁ篠岡、どうしてほ しい?」  俺、にあからさまなアクセントを付けて、自主的にあの“人の悪い笑み”と評される表 情を浮かべる。思いがけず話を振られた篠岡は、軽く肩の線を跳ね上げた。 「ええ!? えっと、とりあえず離してあげるのがいいんじゃないかな?」  口調は控えめだったが、遠慮のない声でそう進言する。なぜなら、髪を引かれている水 谷の限界が近そうだったので。  阿部もそれは判っているらしく、一秒の間の後、無事に水谷の頭髪は解放された。無骨 な阿部の手の隙間を縫うように、するりと柔らかな茶色が指から逃げていく。 「ありがとー篠岡」 「や、別にお礼言われるようなことじゃない気が……」 「いいのいいの。助かったのはホントなんだし」  水谷はにっこり笑うと、途端にむくれた顔になって、阿部の机に顎を乗せた。 「そもそも阿部が突然引っ張るからー」  そんな恨みがましい目で見られても困るのはこっちだ、と阿部はため息をついた。それ こそ突然、自分の机から人の頭がにょきっと生えてきたのである。すぐに正体は見破れた ものの、一瞬ぎょっとしてしまったことは事実であり、悔しいやら恥ずかしいやら。 「まぁ、悪気があったわけじゃないのは判るけどさー」  そんなわけで思わずバイオレンスな行動を取ってしまった。ということすら、解られて いることもまた照れくさいが。 「……。で? お前ら何の用だよ」  この時期はどこの高校も絶賛テスト期間中である。もちろん西浦も例外ではなく、週明 けから始まる期末に向けて、この数日間は部活も休みになっていた。現に今、阿部の手に は地理のノートが握り締められており、その端に寄った皺が、阿部の切実さを物語ってい る。  ちらりとそのノートを覗き込んだ水谷は、阿部の心境をきちんと把握したらしく、勉強 の邪魔にならないように前置きを飛ばした。 「んー? じゃあ手短に。篠岡、先にどうぞ」 「え、私から?」 「うん、言い出した人からでしょ、こういうのって」  うーん、と少し俯いて唸っていたが、おもむろに顔を上げて、 「じゃあお先に、ってのも変か。えっと、」  小さく右に首を折って、 「誕生日おめでとう、阿部くん!」  と持ち前の笑顔全開で笑いかけた。 「おめでと、阿部」  水谷も、同じような笑顔で追従する。  対する阿部は、本日二度目の思考停止に追い込まれていた。いや、言われていることの 意味は理解できるけれど、感情が追い付いてこない。 「おーい、阿部? 固まってるけど大丈夫ー?」  若干からかいを含んだ声が頭上から降ってきて、ようやく阿部は正気を手繰り寄せた。 「……、」  またも照れ隠しで暴言を吐きそうになる喉元を押えこむ。面と向かって彼らの顔は見れ なかったけれど。 「……ありがと……う」  今更、どうして知ってんだ、などと訊くつもりはない。というか、この状況で訊いてし まったら、あまりにも間抜けにすぎる。  この優秀なマネージャーが第一声を放ったからには、理由も何もかも明確だからだ。彼 女が水谷と話しているうちにこの話題が持ち上がり、恐らく花井にも飛び火したに違いな い。  なぜ判るかというと、今まさに、そのもう一人がとばっちりを終えて教室に戻ってきた からだ。ああ、どんなやり取りがあったか分かってしまう自分が恨めしい。 「ありがと、花井くん」 「お、お疲れ花井!」 「お疲れ、じゃねぇよ水谷……こんな短時間でコンビニまで走らされたこっちの身にもな ってみろ」  やっぱりか、と花井に苦笑を送る。同じように苦笑が帰ってくるものと思ったが、予想 に反して、混ざり気のない笑顔が返ってきた。 「ほら、プレゼント」  がさ、と薄いビニール袋が目の前に突き出された。有名なコンビニチェーン店のロゴマ ークを透けて見えるのは。 「プレゼント、ってお前これ、焼きそばパンとコロッケパン……」 「だってお前、いつもテスト期間中は学校残って勉強してくだろ?」 「……それ、差し入れって言わねぇか?」 「私もそう思ったんだけど、二人が、「阿部に野球以外の物あげてもダメ」だって言うか ら……」  阿部のパンを見つめる視線が呆れたときのそれになっていることに気付き、慌てて篠岡 がフォローに回るが、かえって墓穴を掘った。  かに見えた。 「……判ってんなぁ」  しかし、次に阿部が漏らした呟きがそんなものだったので。  篠岡は少しだけ悔しくて、少しだけ羨ましかった。 「ま、今日は直帰だけどな」  帰りのショートホームルームが始まろうとしている。差し込む夕日は、年の瀬間近にも かかわらず、微かに小春日和のような暖かさをもって教室独特の雰囲気を溶かしている。 まるで、今日が何の日か知っているかのように。 「へ? そうなの?」  パンの意味ないじゃん! とばかりに叫び出しそうになる水谷に右手を突き出してその 口を塞いだ。 「今日だけは、親が俺にかまってくる日だから。さっさと帰って来い、だと」  朝、美佐枝に呼ばれた声を思い出す。もちろん、いつも自分にだって多大な注意を払っ てくれていることは判っているけれど、表面上は弟優先のように見えるあの人が、優しい 目で「早く帰ってきてね」と笑った。その意味を判らないほど馬鹿ではない。 「けど、ありがたく貰っとくわ」 「おー。夜食にでもして。……つか、どうせテスト期間終わったら田島あたりが騒ぎ出し そうだよなぁ」 「は?」 「阿部の誕生日。テストで祝い損ねた! とか言ってさ」  エナメルバッグにパン二つを放り込まず丁寧に閉まった阿部が、心底微妙な顔をした。 「……なにあいつ、知ってんの?」 「ごめん、私と水谷君で話してたところを聞かれちゃったみたいで……」  そう言って、小さく首をすくめる篠岡をちらりと見つめる。しかしすぐに目線をふい、 と外して、阿部は笑ったのか溜息なのか、判別の付きにくい息をついた。 「……まぁ、いいけど」  教卓に担任が歩いて行く。けれど、そこで訊きたいことがあったのであろう生徒に捕ま った。まぁ、どちらにしろタイムリミットだ。 「お前ら、席戻れよ」 「うん、慌ただしくてごめんね阿部くん」  いいや、と阿部が首を横に振ったのを見てから、篠岡はくるりと踵を返して自分の席へ と向かった。お互い、テストが控えているのは判っているので、むしろ慌ただしくて正解 なのだと思うけれど、そうやって謝るのが彼女なのだろう。 「んじゃ、」  水谷も、窓際にある席へ戻っていく。冬に窓際になっても嬉しくない! と叫んでいた けれど、今日のような陽気なら大歓迎だったに違いない。 「……お前は?」  一人、まだ阿部の机の横に居る花井に視線を振った。手持無沙汰そうに、両手をズボン のポケットに突っ込んで、動こうとしない。 「や、俺だけコンビニに抜け出してたから言ってなかったな、と思って」 「何を……って、あーいいよもう」 「んなわけにはいかねぇだろ。……おめでとう」  野球部員に向ける主将としてではなく、素のままの、友達に向ける声だった。 「……おう」 「っと、あったあった」 「なんだよ」 「コレ。俺個人から、ってことで、帰りにでも食べてくれ」  言い置いて、自分の席へ戻っていった。花井がポケットを漁っていたのは、どうやらこ れを探すためだったようだ。  阿部の右手に、板状のガムが乗っている。 「……あ、」  突然、頭がフラッシュバックを起こす。  そうだ。あのノーコンピッチャーが、寒かった一昨年の冬に、気まぐれにくれた。え、 ちょっと待てよ、あれは、あの日の日付は、もしかして今日じゃなかったか。日付なんて もう覚えていないけれど、いや、でも、あの日の朝、今日と同じように笑った母親を見て いる気がする。 「――っ、」  言ってくれればいいのに、あんなそっけない態度で判るかよ。  馬鹿すぎるでしょう、アンタ。 ※おい、信じられるか……実は、この二倍のプロットがあったんだぜ……。  書けなかったネタは次回。というか続編になるかもしれません。予定は未定。  以下反転↓ 一応、要素だけ列挙しておきます。感じとれるかどうかは別として、ですが。@篠岡→阿 部 A阿部→ ←榛名 B水谷→篠岡 くらいですか。花井は今回脇です(笑)