※先に08' 09,18をお読みください。こちらは後編になります。  まだひぐらしの声は鳴きやまない。 「あーつーいーよー」 「うっさい。……なぁ、」  口に入れた最後のパンを咀嚼し終わって、手元で包装ビニールを握りつぶしながら、泉 が口を開いた。 「なぁに?」  対する水谷は、もう先程のような小さい笑みを浮かべることもなく、いつものように首 をかしげて泉の方を見ている。まるで、あのやり取りがなかったかのようだ。 「やっぱり、お前も言いたいことあんじゃねぇの?」  けれど、そう言った瞬間、僅かに水谷の目蓋が痙攣したように見えた。大丈夫、見間違 いではない。普段から、速度百三十キロも四十キロもある白球を追いかけている身として は、これしきの動作は追えると自負してもいいだろう。 「……えーっと、」 「言えよ。ついでだから」  スポーツバッグの底からペットボトルを救いあげて(掬いあげて、ではなく)、泉は水 谷に視線を放ったあと、 「今のうちなんじゃねぇの? もう三橋が出てきてるしな」  そのまま視線の焦点を後ろに合わせて呟いた。それが、水谷を促している、としっかり 自覚した上で。だって、自分だけ、言わなくてもよかったものをわざわざ言ったという結 果は嫌だった。こうなれば水谷にも吐かせてやろう、と思うのは自然な流れだろう。  ちょうど、水谷越しに見えるコンビニの出入り口から、明るく茶色に透けた髪の持ち主 が出てくるところだった。いつも会計は一番最後になりがちな三橋は、今日も今日とてそ うだったらしい。食い意地は張っているのに、商品を選ぶ手はうろうろと迷うことが多く て、だがそれでこそ三橋だともいえる。  そして、彼が出てくる頃には、その他部員たちはすでに半分ほど食料を消費しているの が常だった。つまり、三橋が買い物を終えたイコール皆が帰るまでのタイムリミットが決 まった、ということになる。 「あー、ホントだ。メロンパンかな、三橋が持ってんの」 「んー? つーかこっからだと逆光で見えねぇよ」  それはそうだけどさ、と少しおどけた笑顔を張り付けていた水谷は、唐突に振り返って いた顔を泉の方に戻す。 「……じゃあ、言ってみるね」  しかし、水谷の口からその言葉が零れ落ちた瞬間、泉は水谷を促したことを即座に後悔 した。  言わせようとするんじゃなかった、急かしたりするんじゃなかった。自分だけ崎玉戦の ことを話して、それで終わりにしておけばよかった。 「あのさ、」  これは、絶対自分にとって面白くない話だ。だって、向かい合う水谷の声が、目が、ご めんね、聞かれたくないことだったらごめんね、って言い続けている。 「こないだの崎玉戦で、試合中のグラ整やったじゃん。で、その時になんか田島と三橋が 言いあっててさ。どうなるかと思ったけど、でもなんかあいつらの間だけで解決しちゃっ て」  何があったか正確には泉も水谷も知らない。二人の知っていることというのは、つまり 花井と三橋で何事かを話していて、それを田島が「イジめんな!」とかなんとかフォロー (田島なりの)を入れたところ、「イジめられて、ない、よ!」と滅多に人に反論しない 三橋が田島に噛み付いて、どうなるかとギャラリーが冷や冷やしながら見ていたら、なぜ か二人の間でお互い納得がいったらしく、何事もなかったかのように二人揃って試合へ戻 っていった、という顛末のみだ。 「あーあー、あったなそんなことも。けど、それがどうしたんだよ」  自分にとって、嫌な話だということは判っている。相変わらず、水谷の雰囲気がそれを 叫んでいるのだから、間違いはないはずだ。けれど、今の話とどこがどう繋がって、自分 にまで辿り着くというのだろう。だって、その話の主人公は田島と三橋なのに。 「そのときさ、泉がさ、「俺はもう慣れたぜ」って言ったの……覚えてる?」 「あ?」  繋がった。というよりは飛び火してきた。 「……覚えてる、けど」  ジャリ、と靴底のこすれた音がして、今いる場所はアスファルトの駐車場だ、と思いだ す。車止めのすぐそばに立っているのすら忘れて、ただ足をぐっと踏みしめるしかできな かった。  ああ、答えた語尾が微妙に揺れていたことを、今すぐ水谷の記憶から抹消したい。 「つか、そんなん俺いつも言ってるだろ? 水谷だって、あいつらと同じクラスになって みろよ。俺の気持ちなんか一発で判るぜ」  踏みしめた足から力を練り上げて、少し見上げた先の水谷に目線を合わせる。けれど、 当の水谷は、困ったように笑っているだけだった。 「そりゃ、授業中もずっと一緒に居れば、俺もそう思うかもしんないけど。……でもね、 泉の「もう慣れた」は、――慣れてない人の台詞だと思ったの」  ぎゅう、と喉元に手を伸ばされて、頸動脈と気管を一緒に握られたような感覚がした。  耳が拾ったその言葉を脳が理解した瞬間、吸った息を吐く方法を忘れて、見開いた目が 元に戻らなくなって。  そんな泉を見る水谷の眼は、しかし予想以上に優しかった。 「ごめんね、聞きたくないことだった……んだよね」 「……謝るくらいなら、」 「言うな、でしょ? だから言わないことにしようと思ったのにー……」  どうにか喉の奥から絞り出したと判る声だったにもかかわらず、水谷の返答はいつも通 りのトーンで返ってきた。そんな、些細なことだなんて言えない対応に、無性にしゃがみ 込んでしまいたくなったけれど、それは流石にあとで自分で自分を殴りたくなるだろうか ら止めておく。 「俺はね、」  そんな泉を見つめながら、水谷は歌うように続けた。 「実はちょっと憧れ……じゃないけど、なんかそんな風に思ってるんだ。あの二人さ、今 時珍しいじゃん。周りなんか気にしないで思ったこと言って思ったことやって、リアクシ ョンだってホント自分の感じた通りっていうかさ」  いつもの水谷の笑顔に、ほんの少しだけマイナスの痛さを加えた顔が、けれどどこか嬉 しそうに言うのを見やって、泉は息の吸い方を思い出す。 「……鬱陶しいけどな」 「ふうん?」  否定はしないんだ、と言外に言われていたけれど、あえて無視することにした。そうだ よ、だなんて肯定する気はさらさらない。  水谷もそれは判っているようで、うん、と一つ頷いた後、くるりと体を九十度回転させ て、泉と同じ方向を向いた。視界に、じゃれあっている田島と三橋が飛び込んでくる。 「まあ、ちょっと悔しいなーとも思わなくはないけどねー」  少なくとも、あんな公式の場所であんな口論が出来る時期は、自分にとっては終わって しまった。あの二人にもそんな時期の終わりがあるのか、それとも変わらずに行くのかは 判らないけれど。  水谷が、ちらりと泉を覗き見ると、眩しそうに目を細めて彼らを見ていた。コンビニの 蛍光灯のせいではないことくらい、誰にだって判ることだ。 「……泉」 「んー。……ちゃんと考えんのが嫌で、今まで慣れたってことにしてたけど」  彼らのやり取りを見るたびに、少しだけどこかが軋んていたのも嘘じゃないけど。 「でもさ、俺ぐらいじゃん? あいつ“ら”のお目付け役、ってのは」 「ああ、個人個人なら相手にできてもね。一緒になられると、確かに俺らには荷が重いか も」 「だろ?」  そう言った泉が笑っていたので。  水谷も同じように笑い返して、八人のいるコンビニのゴミ箱前へと歩き出した。