お? と一番初めに疑問の声を上げたのは泉だった。 「田島、なにそのお弁当」    もう秋だ、と言い張ってもまかり通る気候になってきた。たまに外気温が二十五度を越 えることはあっても、湿度がまったく夏と違うので、むしろ汗さえすぐに乾いていく。あ あ、いつか誰かにヨーロッパの気候は日本の秋に似ている、と聞いたことがあったような 気がする。そうか、湿度がない暑さなのだろう、向こうは。  そんな乾いたさなかに、イチョウの木は銀杏と黄色い葉を振り落としていた。グラウン ドへ向かう道の中に、あの独特の臭いが立ち込めていることだろう。潰された銀杏の白さ が、アスファルトに弾かれて土には戻らない。それを避けて進むことにも、もう慣れたけ れど。  今日は快晴だ。空に浮かんだ雲の溶けるような青さを見上げて、今はクラスメイトの席 を横取りしてのお昼ご飯中。 「ん? お、ホントだ。どしたの田島。なんか妙に豪勢だなぁ」  浜田が、ひょいっと田島の弁当を覗き込むと、 「へへーん、羨ましいだろ」  と、田島は小柄ながらも胸を張って大きく笑った。そうされると、まるで体格まで大き くなったように錯覚してしまう。 「羨ましいも何も、どうせお前の腹に消えるんだったら一緒じゃねぇ?」  しかし、その普段ならもっともな泉の言に、田島は少しむっとした目をした。 「いーずーみー、この弁当は特別なの! そんなこと次言ったらホント怒るかんね!」  滅多にお目にかからない、きつく貫かれる視線に、泉は椅子ごと後ずさりながら、こく こくと頷いた。数秒の後、田島がにぃっといつものように笑うと、ほっとしたように胸を なでおろす。まあ、その反応には納得だ。誰だって、田島に本気で凄まれたら堪ったもの ではない。  弁当箱の裏についた米粒をつまみながら、いつもなら面倒くさそうにしているその作業 なのに、田島の顔はニコニコしていて至極ご機嫌だ。 「ど、うした、の?」 「なー、ちょっと気味悪いよなー」  ハマちゃ、と三橋が田島の顔をおそるおそる覗き込みながら、浜田に同意する。その目 じりには、いつもとは違うものを見せられているせいか、小さく涙さえ浮かんでいた。  泉がそれを見かねて、とうとう事の真髄に手を出した。 「えっと……田島、本当にその弁当どういう意味があんの?」  すると、待ちかねていたかのように、田島はふふん、と鼻を鳴らして、さらに笑みを深 めた。通訳するなら、「やっと訊いてきたか」というところだろうか。 「これね、誕生日弁当なんだー」  一瞬、場が凍った。三橋に至っては、箸に挟んでいた卵焼きの半分をぽろりと弁当の中 へ取り落とす。  そして、その四人の中で、小さな爆発が起こった。 「ちょ、え? 田島、誕生日なの? 今日?」 「なんだよ浜田ー、そんなに乗り出すことないだろー」 「や、乗り出すよ! だってお前、人の誕生日はあれだけ盛大に祝おうとしといて、自分 はソレってなくないか?」  なぁ三橋、と泉は意気込んで話を振る。若干その勢いに押されてはいたものの、必死に 三橋も頷き返した。  だって、三橋も、あれだけ嬉しい誕生日だったのだ。それを後押ししてくれたのは(と いうか、誕生日なのかと勘違いをした母親のフォローを結果的にしたのが)田島だという のに、当人の誕生日がまさか今日だなんて。 「田島く、祝いたい!」  ぎゅっと握り締めた拳が、ぶるぶる震えている。と同時に、その目も、もはや泣き出し そうだった。  当の田島は、そんな申し出にきょとん、としている。 「だよなぁ、祝いたいよな三橋」 「俺は話にしか聞いてねぇけど、楽しかったんだろ? 三橋の誕生日会」  浜田の問いかけに、泉は当たり前だろ、と言わんばかりに強く首を縦に振り下ろした。 そして、その勢いのまま、ぐるりと田島を正面から見据えて、声のトーンを落とす。 「なぁ、もし聞かれなかったら、」 「あー、そっか!」  泉がさらに問い詰めようとしたその時、唐突な田島の大声がそれを遮る。泉が言葉を止 めるより早く吸った息が、彼の肺にぐっと詰まって掻き消えた。 「ごめん、そっか、俺、家族に祝われるので毎年終わりだったから」  っていうか、あの人数で祝われちゃうと、なんかもうお腹いっぱいなんだよね!  田島は、ぽん、と手を打ちながら、眼差し全体で訴えかけてきた。三橋、泉、浜田、と 順番に一人ひとりの顔を見ては、ぐっと眼力をこめて伝えている。 「だから、部活のみんなに祝ってもらうとか、すっぽ抜けてたんかも」  全力の、「悪気はなかったんだよ」と「ごめんなさい」を。  しばらく、黙ってその視線を受け止めていた泉は、一つ頷くと、おもむろに自分の携帯 で電話をかけた。 「あー水谷? は? 田島? 居るけど……、ああ、そうか、篠岡か」  うん、と携帯の相手には見えないくせに小さく首肯して、 「その情報、全員に流せよ。今日の練習終わりに祝おうぜ」  それだけ言い放つと、水谷の返事も聞かずに回線を切った。口の片方だけを上げた、人 の悪そうな笑みが田島の目の前にある。 「というわけで、放課後お前を祝うことになったから。つか、篠岡も気づいてて、今七組 でどうするか話してたんだってさ」 「篠岡が? ……って、え、待った、練習終わったらかーちゃんが家で誕生会してくれる って、」 「判ってんよ、んなこと。手短に、ぱーっとやるだけだから」  泉の言葉が終わらないうちに、三人の携帯が一斉に振動を始めた。もちろん、差出人は 水谷文貴。浜田は、泉の携帯を覗き込んで、同じようににんまり笑う。  そして更に、逃げられないぞ、と全員で追い討ちをかけてきた。 「誕生日、おめでと田島!」  ああ、なんて嬉しい追い詰められ方だろう。