崎玉高校との一戦が終わった。  まとまった雲の漂う空は、溜め息の出るほど青かったことを覚えている。  その二日後、次の対戦相手や“その先”を見据えた練習を終えた夕方。  実際にはもう夜と言っても差支えない時間帯だが、どうも周りで騒ぐように鳴いている ミンミン蝉の声を聞くと、昼下がりのような気がしてくるから不思議だ。カナカナ……と 鳴く、ひぐらしでももっと居ればまた雰囲気も違うのだろうが。  そもそも、夏至をだいぶ過ぎたころとはいえ、まだまだ日は長く、夜は短い。そんなわ けで、西浦高校野球部の面々が家路に着くころというのは、太陽は地平線の上ギリギリへ 居座っていることが多いのだ。もちろん、練習が長引いた場合はその範囲ではない。  夏休み前は、家へ帰る時間も夜九時や十時などザラであったが、夏休みに入ってから、 練習時間の確保という面ではだいぶ改善された。もちろん、夜が深くなってから帰ること だってあるけれど。  今日は、どうやら夕暮れと呼べる時間帯に解散となる運びだ。早いところシャワーでも 浴びたいな、と練習に疲れた体で泉はそう思っていた。無論、厳しい練習を乗り越えた後 に抱く感想として、至極まっとうである。  みんなして着替え終わると、練習や試合中では考えられないような、だらだらとした足 運びで駐輪場へ向かう。そして、夏休みに入る前からの練習後の流れとして、いつも通り コンビニへとペダルを漕いだ。  思い思いに紡がれる会話は、例えそこの二人ないし三人組のものが途切れても、必ず他 の人々が何かしら話しているので、全体として は常に十人で騒いでいるように見えること だろう。そして、その雑多な雰囲気を、誰一人嫌ってなどいないのだ。  そして、その雰囲気のまま、天井に張り巡らされた蛍光灯が眩しいコンビニの店内へな だれ込む。  店としては、客が一気に入る、と言えば聞こえはいいが、どうせ買っていくものなど百 円前後のものしかないうえに、十人分のレジ打ちが待っているとなれば、多少の申し訳な さも感じたりするのだが。まあ、こちらもあちらも、あまり意に介した様子はない。  それより、今はこの空っぽの腹に何を入れるか、のほうが重要なのだ。 「ね、泉、何持ってんの? ソレ初めて見るんだけど!」 「……そこの菓子パン売り場の一番上だよ」 「あった! ありがとー」  唐突に、水谷に話しかけられたけれど、泉の対処は落ち着いたものだった。  これも、自らの所属する九組の天然コンビによるものだろうか、と脳内で遊ぶように分 析して、しかし行動としては、カウンターに小銭を置き、「あ、レシートいいです」など と対応している。人間とは器用にできているものだ。  店の外に出ると、むわっとした、日本独特の湿気を帯びた夏の風が、顔面に吹き付けて きた。思わず、体の本能に従って店内へ後戻りしたくなったが、 「だーめ、ただでさえ店内いっぱいだし、第一この中じゃ食べられないじゃん」  がしっ、と自動ドアを塞ぐように泉を見下ろす影の言うことが正論すぎて、 「水谷、……何で俺が何しようとしたか判ったんだよ」  おとなしく店外の駐車場へ足を向けながら、蒸し暑さにかまけて至極ありきたりな質問 をぶつけてみた。……またコイツ、背ぇ伸びたんじゃないだろうか。 「えー、俺も同じこと思ったから! ホント、あっついよねぇ」  当たり前のように、車止めの近くに立った泉のそばへ寄ってきて、そして同じパンを小 気味いい音と共に開封した。 「これ、新発売なんだってね。泉が見つけてなかったら、気付けなかったかも」 「感謝しろよ? ――なんて、俺もさ、昨日兄貴がゴミ箱に捨ててたパッケージ見たこと ねぇな、って思って、探してただけで」 「じゃあ、感謝すべきは泉の兄ちゃんに、だな」  徐々に、店内を物色していた面々も、駐車場へと出てくる。手に持つ戦利品は、定番の パン系から飲むゼリー、果ては少し値の張る店内調理のから揚げなんてのに手をつけてい る奴も見えた。  これは、食べ終わって解散になるまで、まだだいぶかかりそうだ。空は、とっくに群青 も通り越して、濃紺を呈している。  はぁ、と軽い溜め息をついて、泉はその口を開く。 「……水谷。なに、言いたいことでもあるのか?」 「え? ……あー、まあ、ちょっと不審に思うのは判るよ。俺、普段そんなに泉と話す、 ってことないもんね」  しかし、コンビニでこうやってものを食べることは日常だし、その側に泉がいたことだ って何回もある。けれど。 「つーか、なんで二人っきりなのか、ってことを俺は聞きたいわけ」  普段、みんなが店を出てから溜まる場所とは反対の、それでいてそんなに外れていない 位置に、二人は居た。ちょうど、みんなが絡んでこない絶妙な距離が、二人とみんなの間 に横たわっている。  しかし、そんな質問をしてきた泉を、水谷は面白いものを見るように、きょとん、と見 つめ返して。 「……なに言ってんの泉。初めにここに立ったの、泉だよ?」  忘れた? と笑顔を見せる水谷を、反射的に殴りそうになって、泉は慌てて右腕を自ら の制御下に取り戻す。それと同時に、ようやく脳内が事の次第に追いついてきた。  そうだ、店の出入り口で声をかけられて、そのあと水谷より先に歩いてここに立ち止ま ったのは、自分だった。 「俺は、泉が俺に何か話でもあるんじゃないかなー、と思ってたんだけど」  そう言いつつ、水谷は食べ終わった菓子パンの包装をがさがさと畳み始めた。なんでそ んなことを、と疑問に思った瞬間、――そうだった、ゴミ箱は普段からみんなが溜まる方 の壁にあるのだと思い出した。というか、むしろゴミ箱があるから、そちらへ向かうので あって。 「って、ちょ、泉さーん? そんなに握ってたら、パンが凄いことになりますけどー」 「え、あ、……ああ」  まだ三分の一ほど残っている新発売のパンは、水谷の言う通り、知らず握りしめていた 右手に潰されかけていた。大丈夫、まだパンとして食べられるだろう。  泉は、先程ついたそれよりもだいぶ深い溜め息を零した。 「……別に、そんなつもりじゃなかったんだけどな」 「ということは、なにか話したいことはあったってこと?」 「あー……、なくはない、というか、」  崎玉戦、四回裏。  そこで回ってきた泉の三打席目は、一死満塁という局面だった。  つまり、コールドを狙っていたあの試合としては、いつも以上に是が非でも点を重ねな ければならず、つまりそれは外野フライでもいいから重要な一点を入れろ、という非常に 緊迫した状況だったのだ。  そんな中、その日調子の良かった泉に投げられたのはスクリュー。二回連続で投げられ て、2ストライクと追い込まれた、その時。 「サードランナー! って、お前ものすごい笑顔付きで叫んでてさ」 「ああ、言ったねー、そういえば。だって、泉があそこまで早く追い込まれることってあ んまりなかったし、満塁だったし」 「そうそう。ダブルプレーは嫌だな、とかそんなこと考えてて。結局、余裕なかったんだ よな、あの時」  泉は、潰れかけたパンを口へ頬張る。菓子パンだけあって、そこそこ甘い。夜の色が、 コンビニの明かりのせいで溶けていく。 「……泉、ホントに余裕なくしてたんだ」 「なに、じゃあ何のためにあんなことしたわけ。第一、塁上で笑うなんて、」 「あ、それは……なんだっけ、不謹慎? だったと思ってるから。……えっと、何のため に、って、そりゃもちろん俺に気付かせて、リラックスさせるためだけど。でも、ホント に余裕なかったとは……」  手持無沙汰なのだろう、水谷の手元でガサガサとビニールの擦れる音がする。ここに立 ったせいで、少しだけゴミ箱行きが延びたビニール袋の。  近くの民家で、ようやくひぐらしの鳴く声が聞こえてきた。 「ってことは、それを俺に言いたかった、ってこと?」 「そういうこと。――ありがと、な」  ううん、別に。と言ってゆっくり首を振った水谷は、少しだけ、二つか三つ上の人間が する表情をしていた。  曰く、「誰であっても、俺はやったと思うから」だそうだ。 ※すみません、なんか前後編になりました。次は短い、はずだ……。というわけで、続き  ます。 →08' 11,19へどうぞ。