夏休みが始まった。  梅雨が明けたばかりの、眩暈がするくらい遠い空だった。  チリーン、と金属音が鳴り響く。沖の耳さえ間違っていなければ、今の音は自転車のベ ルに違いなかった。  しかし、どう考えても、彼の乗っている自転車と道路の横幅には三人くらい余裕で通れ る幅がある。そして通常、自転車のベルというものは、通行できないときに鳴らすものだ ろう。  沖は、前に何も障害物になりそうなものがないことを確認してから、訝しみつつ振り返 る。 「あ、」 「おはよう、沖」  訝しむまでもなかった。知り合いが、「おーい」と声を出すのを、自転車のベルで代用 しただけだったのだ。 「おはよう、西広」  沖より少しだけ長い黒髪に、暴力的なまでの朝日を反射させて、自転車を漕いでいる。 少しだけ進むスピードを落としたら、すぐに横へ並んで走行し始めた。 「なんか、もうアスファルトから熱気が……」 「ね。まだ八時前なのに」  夏休みに入って、今まで続いていた五時起きの生活はなりを潜めた。もちろん、そのよ うな日程の時もあるのだけれど、基本的にあのスケジュールは学校の授業があるとき用ら しい。  けれど、もうすでに早起きが習慣化しているし、練習すればするだけなにがしかの手ご たえがある今の状況が楽しくないわけはないので、自然と足はグラウンドへと向かう。  無論、この二人も例外ではなく。咲かせる話題は練習のことばかりだ。 「昨日の鬼ごっこの勝者って誰だっけ?」 「んーと、田島じゃなかったかなー」 「田島かぁ……。ってことは、今日は上機嫌だね、あいつ」  西広は、左手で自分の顔を扇ぎながら、声を殺すようにくすくす笑った。  そういえば、大っぴらに笑うことは少ないよな、と沖は思う。同じクラスで既に三ヵ月 過ごしているけれど、教室内でも大声で笑う西広は見かけなかった。ただ、今のように、 顔の回り数センチ内で笑っている。 「まぁ、誰でも一位になって、おにぎりの具が予想付く以上、上機嫌になっちゃうと思う けどさ」  ペダルにぐん、と力を込める。ここは傾斜は緩めではあるものの上り坂になっていて、 校外ランニングで走るときには結構疲れる場所として有名だ。むしろ、急で良いから短く なって! とは、この坂の長さに音をあげかけた水谷の言である。 「……」 「……」  お互い、しばし無言でペダルを踏み続ける。ときどき、文句を言うように軋んだ音を立 てるスプロケット以外は、一本外れた通りを走る車の音と、道端へ出ている人の話し声だ けが、二人の沈黙を埋めていた。  心地よい沈黙だった。たぶん、これが他の野球部の面子だとこうはいかないのだろう。 黙っていられない人、黙っていると妙に気まずくなってしまう人、気遣って沈黙を作らな いように話を振ってくれる人。実に個性的で、面白い人間が集まったものだと思う。  しかし、沖と西広でいる場合には、別段話をしなくても平気だ。普段の日常生活でも同 じ空気を共有しているせいか、余計な気を回す必要はなくなった。 「ま、あと数人も同じようなカンジかなぁ……」 「え? 何の話?」 「ああ、ごめん」  うっかり口に出していたらしい。さてどう説明したものかと思ったが、結局上手い言い 回しも見つからないのでそのままを告げた。 「んーと、沈黙を気にしなくていい人のことを考えてた」  すると、西広はまた小さく口の中で笑う。けれど、その笑い方は、面白くて笑う笑い方 ではなくて、 「つまり、俺は気にしなくていい人側ってこと?」  嬉しそうにはにかんだ笑い方だった。 「そう。あと、何人かいるな、って」 「うん、そうだね」  視界に、第二グラウンドを取り囲む防護ネットが入ってきた。緑色のネットに光が反射 して、否応なく暑くなる予感を掻き立てられる。 「んー、どうしようかな。なんか田島や水谷あたりにうるさく言われそうだけど……ま、 いいか。ねぇ、沖、」  おもむろに、西広は何事かをぶつぶつ呟いていたが、やがて沖のほうに向きなおる。そ の笑顔は、掛け値なしに輝いていた。 「え、何、」 「先に言っとくね。――誕生日おめでとう」 「……!」  みんなで一斉に言おう、ってことになってたんだけどね。ちょっと今嬉しかったから、 フライングだけど言っとくよ。  あまりの突然さに言葉を失った沖をからかいもせずに、淡々と説明を加える。 「だからさ、俺が今ここで先に言ったの黙っといてくれる? 知ったら田島とかが騒ぎ出 しそうだからさ」 「……あ、ああ、うん、確かに」  それは大いにあり得る可能性だ。騒ぎ出す度合いにもよるが、田島を“完璧”に制御で きる人間が選手内にいない以上、主将や田島係(不本意であろうとも)に余計な心労をか けさせるのは得策ではない。 「判った、言わないでおく」  目の前に迫った防護ネットを見上げる。今日も、汗を流して白球を追いかけて、いつも 通りの一日が終わる。けれど。  年に一回の誕生日が、こんなにもありふれている今日だなんて。 「ありがと、西広。絶対、今日はいい日になるね」 「うん。――さ、行こうか。もうみんな来てるよ、きっと」  フェンスを潜るとき、挨拶のために大きく息を吸い込む。  その勢いで頭上を仰いだら、眩暈がするくらい遠い空だった。 ※スプロケット:なんか自転車の後輪でチェーンと組み合わさってる歯車のこと。