三橋と話していたら、思わぬことを聞いた。  蝉の声が、五月蝿いほど騒いでいて、まるでそれは自分の心のようだった。  夏休みに入った。練習はますます気合いの入ったものへと変わっていく。もちろん、元 々気合いは初めから入っているのだけれど。 「たーじま。何してんの?」  つまりそれは、肉体の疲労度も増していくということを意味している。なおかつ、燦々 と照りつける日差しは日に日に強くなっていくし、ありがたくも篠岡が苦労して撒いてく れる水だって、少し時間が経てば蒸発してしまい、グラウンドはただの固まった土へ巻き 戻るのだ。 「あれ、栄口? どったの」 「いやいや、まずは質問に答えてくれると嬉しいんだけど」  追い打ちをかけるかのように、周りの木々には蝉がへばりついて、短い生を謳歌してい る。たった一週間で、この世に生まれおちた意味のほとんど全てを果たさなければならな い苦労は察するに余りあるが、いかんせんその声を聞くと暑さが倍増してくるのだから嫌 気も差そうというものだ。 「んー、ちょっと家帰るまでの暇つぶし?」 「……ふうん」 「栄口は?」 「……田島さ、俺が副主将だってこと忘れてるよね」  目の前で振られた鍵の立てる、カチャカチャと涼しげな音が、うだるような暑さに呑ま れて消えた。 「あ、部室の鍵当番かぁ」 「そういうこと。というわけで、残るのは構わないんだけど、もうちょっと詳しく理由を 聞かせて欲しいな」 「ん? 構わねんだ?」  部室の畳の上で胡坐をかいている田島の横へ、人一人ぶんのスペースを開けて座る。他 意はない。ただ、隣に人の温度を感じたくもないくらい、暑いだけだ。 「うん。別に、急いで帰らなきゃいけないわけじゃないから。ただ、暇つぶしに付き合う からには、理由くらい知りたいだろ?」 「んー……。あ、じゃあ、」 「鍵は預けないから」  ぴしゃり、と言おうとしたことの先を制されて、田島は口を噤む。そこで食い下がるに は、自分では分が悪すぎると判っていたからだ。何かを預けられるような性質の人間では ない、と自分でも自覚はある。その点、栄口なら適役だろう。  そして、「早く帰れ」とは言ってこない。  一分あれば帰れる家であることは周知の事実で、もちろん栄口も知っている。けれど、 わざわざ“暇つぶし”だと言った田島の言い分を、決して笑ったりはしないのだ。 「……暑いねぇ」  先を促すでもなく、ただ話しやすいように、沈黙を埋めてくれる。 「なー」  少しだけ、その気遣いに甘える。それから、その気遣いに応える。 「あんね、今日、ひいじいの定期検診の日でさ。で、病院に付き添って行っちゃうから、 家にあんま人が居ねんだよな」 「うん?」  大分傾いたとはいえ、太陽の勢いはまだまだ衰えない。少しだけ、風が吹いているのが 救いだろう。開け放した部室の窓から、髪を揺らす程度の風が流れ込んでいる。 「……好きじゃなくてさ、人の少ない家って」  人の少ない家。  天井を見上げながら呟かれた、暑さで揺らぐ空気を震わせる声が栄口へと届く。いっそ のこと、届かなければよかった。  ふ、と三橋と交わした会話が蘇る。 「……前に、倒れたことあるんだって? 田島のひいお祖父さん」  ぐるん、と首ごと回転させて、田島は栄口のほうへ向いた。 「そー。って、アレ? 栄口なんで知ってんの?」 「三橋に聞いた。こう見えて、俺も三橋とは結構話してんだよー」  後半、少しだけ口調を軽くすると、田島は頬を持ち上げて笑った。目まで細くなる。 「そっか。んもう、びっくりした! だって、三橋ん家行ったときにしか話した記憶ねー もん!」 「お、ちゃんと覚えてるんだ」 「えー、なんかそれヒドくない?」  ごめんごめん、と栄口は笑う。  桐青戦が終わって日も浅い頃だったように思う。休憩時間に、一人で手持無沙汰そうだ った三橋に声をかけた。  実はこういうことはよくあることだったりする。田島や、もしくは泉のようにある程度 のスムーズな意思疎通にはかなり手こずるところもあったけれど、彼らだって(田島は初 めからかもしれないが)そんな初めのほうから会話が成立していたわけではないだろう。 事実、バッテリーの片割れは、未だに上手く意図を読み取れないのだし。  ちなみに、その時の会話で出てきたワードは、「田島く、ひいじいちゃん、救急車、わ かる」とまあこんなところだった。  けれど、言いたいことはなんとなく判る。 「へえ、田島はそういう理由で西浦来たのかぁ」 「う、ん、」  手に持ったプラスチックのコップから、定期的に水分をとりながらの会話は思ったより も滑らかに進む。そもそも、自分相手なら、変に気構えることもないのだろう。  蝉が、五月蝿いほど騒いでいる。 「あ、と、怖かった、って」 「――怖い?」  ざわっ、と背筋が総毛立つ感触がした。まずい。 「あ、えと、前に倒れた、って。遠くにいて、気付かなか、」 「ごめん三橋、時間切れかも。ちょっと花井に用事あったんだ」  そう言って、むりやり繋がっていた会話を断ち切った。嘘だと、三橋は気付いたかもし れないけれど、振り向きもせずに。  そのとき田島と同行していた、阿部も花井も泉も、三橋の家を訪ねた時の話はしてくれ たけれど(筆頭に口を揃えて「カレーが美味かった」と言ったのには笑った)、一言も田 島の進学理由には触れなかった。  その理由が、今となってはよく判る。 「……人のいない家、かぁ」 「めっちゃ怖かったんだよ! ケータイ繋がんねぇしさ、腹は減るしで」  判るよ。  酷く、覚えのある感触だ。 「あ、でも、ご健勝なんだろ?」 「ゴケンショー?」 「んー、……元気か、ってこと」  うん、と田島は頷いた。ぽつりぽつり、蝉の鳴く声がトーンダウンしていく。夕暮れが 一日に幕を引こうとしている。 「元気だよ。“定期”検診、ってくらいだから」 「そう。……よかった」  できれば、そのまま元気でいて欲しいけれど、叶わない願いだとも知っている。みんな 一様に、いつかは。  あの怖さを体感したら、二度と経験したいとは間違っても思わないだろう。進路を多少 捻じ曲げてでも、傍に居たいと思うのは道理だ。  西浦を選んだ田島の気持ちが、実感として納得できてしまう。 「栄口? どしたの、変なもんでも食べた?」 「は?」 「なんか変な顔してんぞー」  気のせいだよ、と笑った彼の顔を、夕日が溶かしていく。 ※ひぐち先生が、あのとき三橋の家を訪ねるメンバーに栄口を入れなかったのは、話の展 開上、特に訪ねる理由がなかったからだと思うのですが、訪ねてて田島の話を聞いてたら どうなるのかな、とか思ったらこんな話に。