まさか、そんな見方があるなんて思っていなかった。  栄口が七組で弁当を広げることはそこまで珍しくない。なにせ、主将と副主将が在籍す るクラスなのだから。まあ、その副主将の内、片方は同じクラスだからという理由もあっ て指名されているのだけれど。 「うし、来週の練習内容はこんなもんだな」  弁当箱の横に並べたルーズリーフに、百円のシャープペンシルでざっと書き綴ったメモ とも呼べる代物を見て、花井が一人ごちた。 「そだねー。これ以上詰めても、だんだんズレていっちゃうだろうし」  栄口の言に、阿部も口元に箸を運びながら首肯した。  どの弁当も、だいぶ白米の量が割合的に多くなってはいるが、きちんと栄養バランスが 考えられている。もちろん、栄口のそれも例に漏れていない。 「ねー、話し合い終わったのー?」  すると、教室の窓際でクラスメイトとの雑談に興じていた水谷が、机の合間を縫って歩 いて来るのが目に入ってきた。ちなみに、即席の会議場は廊下側にある。  見ていたなら、一目で会議終了は判るだろう。雰囲気が一変するからだ。  水谷の座るスペースを確保しながら、篠岡は紙パックのココアを吸い上げた。篠岡も、 今日は花井たちと机を並べていたのだ。いつもはクラスの女の子と食べているのだが、今 日はたまたまその子たちが学食へ行くと言ったので、会議に参加している。 「あ、ありがとね、篠岡」  彼女の作ったスペースに適当な椅子を引っ張ってきて、水谷はにこやかにお礼を言う。 「ううんー」  篠岡も笑うと、弁当箱を丁寧に仕舞った。 「篠岡、一応見とくか? コレ」  花井が、書く作業を終えたために必要なくなった眼鏡を取り、先程のルーズリーフを差 し出す。雑に書いてあるとはいえ、そこはやはり生真面目な花井のことで、目が通せない というほどのこともない。篠岡も、数ヶ月の経験上それを判っていたので、何の躊躇もな く受け取った。 「……あれ?」  と、途端に彼女から疑問符付きの声が上がる。 「どうした? なんか変なところあったか?」  書き記した張本人が尋ねると、篠岡は急いで首を左右に振った。 「や、これ……」 「日付? ってか、花井もホントに真面目だよねぇ」  その横から、彼女が指差した場所を覗き見て、水谷がのんびりと請け負った。確かに、 メモ程度のルーズリーフに日付を書き記すなど、真面目以外の何者でもない。 「ううん、そうじゃなくて」  けれど、篠岡の思惑は違うところにあった。 「今日って、栄口くん誕生日じゃない?」 「え、」  急に話を振られて、麦茶を飲もうとしていた栄口は一瞬むせそうになった。けれど、す ぐにペットボトルを口元から離して、平静を装う。 「うっそホントに? んもう、言ってくれればいいのに!」  栄口からの肯定もなしに、ずいっと詰め寄った水谷を、とりあえず花井は引き離しにか かった。阿部も、襟首を掴んで後ろへ引っぱる。 「うるせえ水谷。もうちょっと音量下げろ」 「まあまあ。けど、水谷もそんなに勢い込むことないだろ?」  七組勢の流れるような会話テンポに少し我を失っていたが、ここへきて栄口もようやく 会話へと加わる。 「言うほどのことでもないかなー、と思ってたんだけど。にしても、篠岡よく覚えてるよ ね、人の誕生日」 「ちょっとした趣味みたいなもんなんだよー。大したことないし」  飲みきらないココアのストローを銜えたまま、彼女はもう一度微笑んだ。そして、ゆっ くり目を伏せて、当初の目的どおりにルーズリーフの字面を追っていく。  そんな篠岡をちらりと横目で見やったあと、改めて水谷は栄口に向き直って、がたりと 椅子を寄せた。 「でも、そっか、誕生日なんだ栄口」 「うん。まさかそんなに反応返ってくるとは思わなかったけど」  今日の弁当が、いつもよりしっかりした作りになっているのだって、今日が彼にとって 特別な日であることの証だった。いつもはそこまで早起きでもない姉が、一生懸命早起き をして台所へ立ってくれたのだから。 「そりゃ、誕生日は特別な日でしょ?」 「まあ、めでたい日ではあるよな」  弟だって、早くに起きて、そんな姉を手伝っていた。生憎と父親はまた出張中だったけ れど、姉から弁当を受け取った時間には、少し長いメールをくれた。 「うん! でもね花井、それだけじゃないんだよ、誕生日って」 「は?」 「ああ? 他に何の意味があんだよ」  次に練習試合を組んだ学校の選手データを凝視している阿部が、視線をちらりとも動か さずに訊いた。何の気なしに、たわいないお喋りの続きを促しただけだった。 「んとね、誕生日は、『お母さん、生んでくれてありがとうデー』でもあるか、ら……」  不自然に途切れた語尾は、心なしか掠れた。  決して声を上げない程度の、けれど確実に意思を持った強さで、上履きの上から足を踏 みつけられている。それと同じような強さで、Yシャツの袖を引っ張られていた。  阿部と、篠岡だった。 「……」  二人とも、視線は思い切り違う方向――つまり、ルーズリーフと対戦校データへ向けら れているのに、どうやっても続きを言わせまいとする気迫が水谷の口を塞ぐ。 「ああ、そういう見方もあんなぁ」  しかしここへきて、花井が納得した、といった風の声色で頷いた。阿部も篠岡も、花井 と栄口の死角で水谷を止めていたので、ここで花井は責められないだろう。  水谷は、少し長い瞬きをして、唐突に立ち上がった。 「よし! 折角だから、九組行ってくるねー」 「九組?」 「うん。田島に教えてやんだ、今日が栄口の誕生日だって。問答無用で祝われることにな るだろうけど」 「え、ちょっと、」 「あ、花井も行かない? 確か、田島に教科書借りられっぱなしじゃなかったっけ。次の 授業で使うんじゃないの?」 「……あ、おう」  んじゃ、と言い残し、するりと二人の制止から逃れて、水谷は花井を引っ張りながらド アの向こうへ消えた。 「……えっと、」 「栄口?」  思えば、水谷のあの発言から一言も発していない彼を、残った二人は恐る恐る伺った。 というのも、阿部も篠岡も、変に気取られないようにわざと他の物を見る振りをしていた からだ。もちろん、一文字だって頭に入ってきやしなかったが。 「え? なに、どうしたの?」  しかし、栄口は笑っていた。というか、全くいつもの彼と変わりがなかった。  水谷の発言が途中で切れた理由は判っている。同じ中学校だった彼らは、栄口の家の事 情を知っているからだ。  阿部は栄口を試験会場で初めて見た、と言ってはいたものの、家庭事情が不安定な人の 話は学年ごとにどうしても回ってしまうものである。それは、あまり他人に関心がない阿 部の耳にだって入っていた。それに、彼は、二人きりの春休みに、僅かながら直接に聞い てすらいる。  篠岡も、中学時代に回った話で知っていた。それに、各選手のプロフィールを目にする 立場上、それは確信となって篠岡の内にある。 「にしても、祝われるのかー。三橋みたいに盛大じゃないよね、まさか」  栄口はくい、とペットボトルを煽った。一瞬、二人の姿が視界から消える。 「……あの規模はもうねぇだろ」 「でも、今回は私も参加できるかなー」  その一瞬で、二人は視線を合わせただろう。そのための一瞬だったのだ、逃すはずもな い。  結局、帰りのコンビニで大量に食料を奢られることになった。その別れ際、小さく呟い てみる。気まぐれでもなんでもない、伝えなければいけないことだった。 「ねぇ、」 「なに?」 「……ありがとね、水谷」 「ん? んーと、どういたしまして! 今日はおめでと、栄口!」  ――『お母さん、生んでくれてありがとうデー』、か。そうか。  ※これは……補足の話を書かなければならない、かもしれません。すみません。