去年のことを思い出す度に、緩む頬を止められなかった。  そのことがあったというその事実だけで、どれだけ救われたことだろう。 その日は、少しだけ風の涼しい、五月晴れとなった。  珍しく、目覚まし時計無しで、すうっと覚醒していく感覚を味わう。頭が完全にすっき りしても、目を開けずに深く深呼吸をした。昨日のうちに閉じ込められた、なだらかな陽 の匂いが、肺の中いっぱいに広がる。  けれど、今日も昨日の続きならぱ、起きない訳にはいかない。三橋には、今日も今日と て、たっぷりの練習が待っているのだ。 「おはよー……」  階下に下りる。すると、炊きたての白米と、ぱりっと焼いた海苔の良い香りが辺りを包 んでいた。 「あ、おはよう、廉! なーに、目覚まし時計と私なしで起きるだなんて」 「……別に、驚くようなことじゃ、」  少しだけむっとして言い返そうとした、が。 「はいはい、ごめんね。それより、朝ごはん食べちゃいなさい」  目の前に並ぶ、栄養バランスに富んだ朝食に、一瞬にして思考の全てを奪われた。  この時、その朝食がいつもより豪華だったことに気付くようになれば、彼も一人前なの だが。 「さーて!」  まだまだ太陽は高い位置にあるものの、今日の練習はこれで終了となった。志賀と百枝 の諸事情によるらしい。  彼女のよく通る声が、砂ぼこりの舞うグラウンドに響いた。 「またテストが近付いて来てるよ! 判ってるね?」 「えーっ、テストの話なんかいいっすよー」  百枝のありがたい忠告を、一瞬の躊躇もなしに打ち返したのは、 「バカ言ってんじゃねーよ、田島! 赤点取ったらどうなるか判ってんだろ?」  ご多分に漏れず、田島であった。きちんと諌めた花井も、ある程度予想はしていたらし く、彼を叱りつける文句は淀みない。 「そうだよ、赤点取ったら試合に出さないからね!」 「特に、一年生は入学してから初めてのテストだろ? しっかり勉強しなさい」  志賀が柔らかな声で最後通告を述べた。それはつまり「二年生はその一年生の上に立つ のだから、尚更きちんとやらなければ駄目だよ」という意味を内包している。気づいた二 年生の面々は、うっすらと曖昧に笑みを浮かべた。苦笑いと形容してもいい。  が。 「よーし、んじゃまた勉強会やるか」 「そうだねー。二年になってから覚えなきゃいけない古語も増えてきたし」 「確か今回ベクトルの始めの方は範囲に入ってたよな。解らねえまま放置とかあり得ねえ から、覚悟しとけよ」  野球部の主将と副主将二人が口々に予定を詰めていこうとしているところへ、なんとも 暢気な声が掛かった。 「へ? 今回もそんなやんの? シガポが特に一年生、って言ってたじゃん」 「言って、たっ」  きょとん。そのあと、一斉に溜め息。  まるで打ち合わせでもしていたかのようなタイミングの反応に、今度は田島と三橋がき ょとんとする番だった。  上手く意味を捉えられなかったとしても、それはこの二人にとってはある意味まともな 解釈である。だから諦めが半分、そして、「もう少し意図を読めるようにならないかなぁ 」という期待をしてしまった脱力感が半分。 「あのさ、シガポのセリフをまともに受け取っちゃダメなんだって、いい加減お前ら判れ よ……」 「うわー、阿部が怒る気力なくしてる」 「あ? じゃあ水谷、お前は怒れるのかよ」  自分に矛先が向いた瞬間、水谷もぐっと言葉に詰まった。確かに、今は脱力感の方が遥 かに勝る。  あの、人は良いのだけれどどこか食えない数学教師の顔を思い浮かべる。日常的に、こ ちらの若さを使って、からかったり遊んだりしている彼を、尊敬こそすれ恨んでなんかい ないけれど、騙されやすい人間というのもこの世には確かに存在していて、フォローに回 るのは大変なのだと認識して欲しいものだ。……いや、もしかしたら、フォローに徹して いる人間こそを見ているのかもしれないが。 「とにかく、田島も三橋も、頑張らないと赤点かもしれないんだよね?」  黙り込んでしまった水谷に代わり、ワイシャツのボタンをするすると留めながら、沖が 助言を出す。続けて巣山もその言を補足にかかった。 「だったら勉強しておかないとヤバイってのは判るだろ?」 「俺でよかったら教えるしさ」  西広の天声に、皆が「いやいや、もはや西広じゃなきゃあの二人は無理だから」と内心 で突っ込んだ。 「となると場所だな。……なあ、三橋ん家はどう?」  突然、泉に話を振られて、咄嗟に癖で視線が泳いだものの、三橋はこっくり首を縦に動 かした。  特に深い意味があったわけではない。ただ、確か今日は両親が不在で、夜まで帰ってこ ないということを覚えていただけだ。  けれど、三橋のその動作を見て、泉は満足気に笑って応じた。 「んじゃあ決まりでいいか?」  花井が、その様子を見て結論をまとめる。いいよー、と各方面から声が上がった。そう と決まれば善は急げ、とばかりに、皆バッグ片手に部室の出口へ向かっていく。 「あ、あの、泉、く、」 「ん? 何、なんかまずいことでもあった?」  その行列の途中で、小さな声が聞こえた。三橋が、あまりにも必死の形相で話しかけて きたので、泉は先回りをして聞き返したのだが。  彼は首を左右に振って、 「どうして、うち?」  とだけ口にした。すると。  きょとん。そのあと、一斉に溜め息。  本日二回目のその反応を、今度は田島を含めた全員で返された。  三橋はというと、自分だけが状況を把握できず、多少挙動不審に陥っている。どうして 、皆が自分に対して呆れたような反応を返すのかが判らない。もしかしたら、このまま嫌 われて……。 「おい、また一人でごちゃごちゃ考えてんなよ!」 「もう、どうして阿部ってそういうスタンスなの……」  栄口の声をワンクッションにして、阿部の大声が緩和される。しかし、阿部の想像通り にごちゃごちゃ考えようとしていた思考回路は、その大声で破壊された。  そして程よく真っ白になった頭に、田島の快活な声が流れ込む。 「なんだよ三橋、気づいてねぇの? 今日お前誕生日じゃん!」 「だから、去年みたいに騒げたら、って思って言ってみたんだよ。まあ、別にそう思って たのは俺だけじゃないみたいだけど」  泉の付け足した一言に、他部員の、判っちゃった? と少々照れたような、そしてそれ をむりやり誤魔化したような笑みが重なる。つまり、泉が言い出していなければ他の誰か が言ったということか。  すとん、と心が落ち着いた。 「うわ、ちょっと三橋?」 「どしたの、泣かないでー」  安心したとたん、嬉しさと同時にどうしていいか判らなくなって、自然と涙が溢れた。  今年も思い出す度に頬の緩みが止まらない誕生日になりそうだ。 「ちなみに、お前の誕生会ってだけじゃないぞ。勉強もするからな、赤点回避が今の第一 命題だし」 「あ、う、」