※08' 05,08(阿部+栄口)の数分前。の話です。  寂しくないよ、か。嬉しいことを言ってくれる。 タオルをばしゃっとたらいに叩きつける様は、端から見ていると何か怨念でもあるのか と見紛いそうだが、決してそんなことはないと判っている。多少、仕草の乱暴さはぬぐい きれないが。  太陽は南中を通りすぎた辺りにどんと居座り、西浦高校野球部のうなじを容赦なく焼き つける。早いもので、ゴールデンウィークも終わりに近づいてきた。これから、益々季節 は夏へと加速していく。  準備から考えると一日がかりだった三星戦は、大切なピッチャーのトラウマにケリをつ ける以外にも色々意味を持つことになった。もっとも、その意味を自覚するのには若干時 間と経験が必要だと推測される。  そして合宿所に戻ってきた今、自分たちで使ったものは自分たちで綺麗にする、の百枝 憲章の下、使用したタオルを洗っている最中なのである。 「なぁ阿部、あとどんくらいでカタつきそうだ?」 「んー、3枚くらいか? 花井は?」 「俺もう終わった。んじゃ一足先に干しに行くな」 「おー」  水と洗剤に濡れた手を軽く上げて、たらいを抱えた花井を見送った。なに、とははっき り言えないが、阿部は少し三星戦で変わったような気がする。 「んー? 阿部、なんかちょっと変わったね?」 「ぅわ!?」  この男は、人の心に敏感なのは素晴らしいと思うのだが、時々その思考回路まで読むの は止めてほしいと思う。なにより心臓に悪い。  ひょい、と花井の横から阿部を覗いたのは。 「……栄口、」  別のところで同じようにタオルを洗っていたらしく、手には花井と同じくたらいが納ま っている。干す場所はベランダと決まっているので、どこでごわつく白い布相手に奮闘し ていようと、この土間の入り口で合流することになるのだ。 「あれ、今少しそう思ってたんじゃないの? 阿部のこと」 「……思ってたけど。なあ、人の思考読むなよ、ホント」 「別に読んでないって。ただ、多分こう思ってるんじゃないかな、って予想で話してるだ けだから」  それを「思考を読む」というのではないだろうか、と花井は突っ込みたい衝動に駆られ た。確かに両者は微妙なニュアンスこそ違うとは思うが、しかしその予想がこうもばっち り合っていると、やはり思考を読まれている気になる。  軋む板張りのベランダには、既に何枚かのタオルが風にはためいていた。その隙間から 見える青空の遠さに、一瞬意識が呑まれる。 「なにかあったのかな、阿部。三橋と」 「……三橋限定?」 「なんだよ、花井だってホントはそう思ってるだろ?」  まあな、と頷きつつ、絞った形で固まっているタオルを伸ばして、紐へかける。使った 洗剤の香りが鼻先を掠めて、どうしてだか急に家族を思った。 「ま、とにかく、いい方へ進んでいってくれればいいんだけどな」 「そうだねー。それに、……詳しくは知らないんだけどさ、」  阿部もシニアで何かあったみたいでね。スゴイ投手が居たんだけど、多分その人と関係 あるんじゃないかなあ。  そこまで言って、おもむろに栄口は口を閉ざした。けれど、手はよどみなく動き続けて いる。どうした、と訊きかけて、花井も栄口に倣うことになった。土間のほうから、すら っとした黒髪がこちらへ向かって歩いてきている。 「あれ、まだ終わってねぇの?」 「んなにすぐ終わるかよ、第一そんな時間経ってねぇだろ」 「まあまあ。口より手を動かしなよー」  もっともな発言が飛び出し、阿部も花井も自分の洗ったタオルと格闘した。しかし、 「できた……と」  後から来た阿部のほうが、少しだけ早く担当分を干し終わった。花井が遅いと言うより は、単純に阿部の要領がいいのだろう。  すると、薄暗い部屋に、ゆらゆら揺れる癖っ毛の茶髪を見つけた。  寝潰れた三橋を寝かせて、先に土間のほうへ二人で歩く。百枝が、部屋を出るときに阿 部を呼び止めていたから、まだしばらくは追ってこないだろう。 「三橋、なんともなければいいけど」 「あーまあ、一応ただ寝てるだけ、だろ?」 「うん、そうなんだけどね。……夜中にさ、多分三橋寝れてなかったみたいだから」 「ふうん、」  それは、栄口も寝れていないということではないのか、と一瞬思ったものの、はっきり そうだと言っていないのだから、余計な勘繰りをするのは止めた。いつか、話してくれれ ばいい。 「……あのさ、花井」 「ん?」  花井の打った相槌の、あまりの簡潔さが変に不安を煽る。言っておくけれど、俺が寝れ ていないわけではないから、と言おうとして、それでは余計不審に思われるか、とも思っ た。  ああ、どうか、何も。 「どうしたんだよ、栄口らしくねぇな」  ぽん、と同性から見ても大きな手が、軽く栄口の背を押した。少し足がもつれるくらい の強さで、けれど同時にひどく弱かった。  喉の奥が、細く哭く。 「はは、そうかも。ごめん、何言おうとしたか忘れた」 「ちょっと、それヤバイんじゃね?」  まるで何も聞いていないかのように、屈託なく笑う、頭ひとつぶん上の坊主頭を見上げ る。  喉まで競り上がってきたありがとうを、笑顔に隠して呑み込んだ。