パタン、と閉じた障子の向こうに静かな覚悟を詰め込んだ。 遠くから百枝のはつらつとした声が響いてくる。そうか、合宿そのものはまだ終わって いないのだ、と阿部は意識をしっかり保ち直した。  一歩を踏み出すたびに軋む廊下を進むと、どうやら買い出しに行くようだった。そうい えば、百枝が肉を仕入れに行くとかなんとか言ってたか、と思い出す。付いていく人と残 る人とを決めている途中のようだ。 「あ、阿部。どんなカンジ? 三橋」  一足先に板の間へ行っていた栄口から、やんわりと声が掛かる。別に答えても答えなく ても構わないよ、と言外に言われた気がして、阿部は不必要な肩の力を抜いた。柔らかい 声音だけで、そんな感覚までする。 「平気なんじゃねぇの? ただ疲れただけってカンジだし」 「そっか。まあ、毎回じゃなければいいけど……」  そこまでは判らないが、そのような懸念も理解できる。先程持ち上げた投手のぐったり した脱力加減は、なかなか手に残って離れそうにない。そこまで無茶をさせた覚えはない が、きっと三橋には精神的な疲れの方が堪えるのだろう。 「えーと、じゃああとは花井くん! で大丈夫かなー」 「え、俺もっすか?」  居残る気満々だった花井が少し大きな声を上げた。 「うん、お願いします。田島くんが行くって聞かなかったから、お目付け役ってことで」  それはすなわち信頼されているということでもある。この一ヶ月ほどで、ことあるごと に暴走するこの逸材を宥めつつ持ってきた人の中心は彼だと、彼女はわかっているのだ。 そして、そんな百枝の期待を裏切れるほど、花井は人が悪くない。 「……判りました」  ゆっくり日が傾いていく中で、ばたばたと半数弱の人数が出ていった。そして、百枝は 出掛けに、居残り組の役割分担を言い渡すのも忘れない。阿部と栄口は、並んで立ってい たからか、土間が近かったからか、料理係を言い渡された。ちなみに他の皆は使っていた 部屋の掃除だ。 「なんて言うか、」 「ホントいい人選していくよね、モモカンは」  何の才能? と栄口は苦笑した。  合わせる気がなくても、共に過ごす時間が増えれば、自然とこういう台詞は重なってい くものだ。特に阿部と栄口は春休みの始めからずっとグラウンド整備をしていたから、一 緒に居る期間が他の部員たちより少しだけ長い。それも手伝って、意思の疎通が図りやす い相手ではある。 「んじゃ、とりあえず野菜の下拵えから始めようか?」  百枝の運転する車が完全に見えなくなって、栄口は腕捲りをしながら阿部を誘う。その 土間に入って行く様が妙に手馴れて見えた。 「なに、お前よく料理とかす――」  口に出して、けれど止めた場所は既に言いたいことの大半を言い尽くした後だった。ぐ っ、と喉の奥から変な音を出した阿部を、栄口は少し振り返って、小さく笑う。 「阿部が変な気遣いとかしてるの見れるって貴重だよね」 「……変な、って」  貴重、と少し引っかかる言葉を言われても、そこより先に反応しなければいけない単語 が聞こえた。 「変だよ? だって別にそんな特別なことじゃないし。それに、料理って結構やりだすと ハマってくんだよねー。今は野球漬けでちゃんと時間とって出来ないんだけどさ、いつか もっとちゃんと出来るようになりたいなー、とか、」 「栄口。今のお前こそ変」  んー、何が? と歌うように呟きながら、キャベツを水にくぐらせて、包丁を右手に持 った。 「お前さ、俺を、花井か水谷……あと泉か? そこらへんと勘違いしてねぇ? 俺は、あ えて気づいたことに触れずにスルーするとかあんまやらねぇぞ」 「知ってるよ? ホント、どうしたの」  阿部の口から、肺にあった空気をすべて出し切ったがごとく長い息が吐かれた。 「……下手なフォローしようとすんなよ面倒くせぇ。べらべらどうでもいいこと喋りやが って」 「あははー。まあ、阿部ならそういう反応になるよね。ま、料理嫌いじゃないのは信じて よ」 「んなの見てりゃ判るっつの。……つか何、構ってほしいわけ? いつもなら、気にして ることすら隠し通すだろ、多分」  きょと、と目を見開いて、短く刈られた薄茶の髪が微かに揺れた。その表情は、だんだ んと苦笑へ、そして目を眇めて、最後には微笑みになっていく。 「うん、そうかもね」  ちょっとさ、これだけ大人数で過ごしてると、色々思うところもあるわけよ。  水音の中に、消えそうで、でも確かに届いた、滅多に聞かない彼の本音。 「あっそ」  聞かない振りはできないけれど、心に留め置いたよ、とそれだけを伝える短い返答が、 また水音の中に滲む。それで充分だろう、と、これは完全に阿部の推測だったけれど、き っと間違っていない。  春の霞んだ夕焼けの中で、零れるように聞いた、小さな文節の切れ端を掻き集めて、割 と大事に取ってある。野球でいっぱいの頭でも、そのくらいは取りこぼさない。  一方。  残っていた人間の一部である水谷と泉の視界には、後姿の栄口と阿部がしっかりと入り こんでいる。  実音を持たせない息だけの会話が、微かに流れていた。 「まずさ、あの二人明らかに忘れてるよね」 「バケツの水を交換しに行こうと思ったら、どうしてもあいつらに気づかれるんだよな」 「しかも、こんな静かな中なんだから、声とか普通に聞こえるっての」  このフロアの奥から掃除をしていたのだが、バケツの水を取り替えようという段になっ て、出て行くにいけない雰囲気になっている土間に気づいた、というわけだ。 「でも、珍しい取り合わせだよね、阿部と栄口って」 「そうでもねぇだろ。だってあいつら春休み中のグラ整やってたんだから」  そっか、と口だけ動かして、水谷は改めて土間の二人へ視線を向ける。 「……なんかあるんだね、栄口」 「みたいだな。ま、そのうち判るだろ」  どうせお互い、無理強いで物事を訊いたりしない人間だと判ってきている。阿部に訊く のは当人ではないからなんとなく気が引けるし、栄口はきっと訊かれなければ答えないだ ろうから、判るのは随分先になるかもしれないけれど。 「……さて、じゃあ行くか」 「へ? 行く、って」  すると泉は、廊下の端まで抜き足で行くと、そこからは足音を多少豪快に鳴らしながら 板の間まで歩いていく。ああ、そういうことね、と水谷もそれに倣った。 「お、やってんなー! それフキ?」 「あ、泉だー。うんそう、フキ。最後の山菜だよ」 「なんかそうやって言われると文貴寂しいなー」 「おお、フライ落としたレフトくん」 「ちょ、阿部!? その言い方はないよ! そのあとのは捕ったもん」 「そうだねー。あ、ところで二人は何しに来たの?」 「ちょっと水汲み。んじゃ、しっかりやれよ!」 「んー」 ※まず間取りを理解するところからだったのでわりと大変でした(笑)  以下ドラッグ↓  つまり、栄口君はいつも家で料理をしている状況なわけです。で、事情を知っているの に、うっかり「料理とかすんの?」と訊いてしまった阿部。栄口はきっと家庭事情を知っ ている相手であっても上手に気にしてないよーと誤魔化せるのですが、今回はちょっと思 うところがあったみたいで、わざと料理について色々言って、気にしてるよと言外に知ら せてみたり。そんなかんじです。(こんなところで解説しなきゃいけないって……orz)