お兄ちゃん、と呼ばれるようになって、もう何年過ぎたのだろう。まさか双子が生まれ るとは微塵も思っていなかったけれど、でも逆を言えば、一気に二人の妹ができたという ことでもある。  それを当時、どれだけ嬉しく思ったことか。 「お兄ちゃん、お帰りー」 「お帰りー」 「おー、ただいま。つか、まだ寝てなかったのか?」  その晩、花井が疲れた体を引きずりながら家へ帰ると、似た顔をした可愛い妹たちが出 迎えてくれた。しかし、時間は夜十時を指している。明日は、先代の天皇誕生日だとかで 毎年休みだから、構わないと言えば構わないのだが、けれど決して見逃して良いものでも ないだろう。 「んー、ちょっとね!」 「ちょっと?」  あまり隠し事をされた経験のない花井は首を傾げた。というか、隠し事自体はたくさん されているのだろうが、「隠し事をしています!」という態度をとられたことがないとい ったほうが正確か。  すると、キッチンのほうから母親が姿を見せる。母親が起きているのに、早く寝るよう 双子に言わないのもおかしな話だ。普段なら、九時を過ぎた頃から風呂へ催促して、遅く とも十時半には彼女たちの部屋に追いやっているはずなのに。 「あ、お兄ちゃん帰ってきたの?」 「お母さん! 準備はー?」 「もちろん出来てるわよォ」  本格的に何かがおかしいな、そう彼が思った瞬間。  遥と飛鳥が顔を見合わせて、にんまりと笑った。花井の本能が、不測の事態に備えて意 識下に身構える。この笑顔を見た後、自分にとっていい展開になったことはあまりない。  が。 「「お誕生日おめでとう、お兄ちゃん!!」」 「ってことよ、梓」 「……は?」  ユニゾンで言われた意味と、母親のイイ笑顔の意味を、租借して、飲み込んで。足にま とわりついている、可愛い妹たちの背に無意識で手を回して。 「…………!」  顔にありえないスピードで血が上っていっているのは判っていたけれど、だからといっ て止められるものではないことも理解していた。隠しようのない赤面を、それでも誰もか らかわない。 「だって、お兄ちゃん朝早いんだもん」 「ねー。せっかく祝ってあげようかと思ったのに!」  そして手を洗ったあと、花井はキッチンへ両腕を引っ張られていく。花井本人の意思は 最初から考慮のうちにない。 「今日はお兄ちゃんの好きなもので揃えたからねー」  いつもなら、一言くらい母親に一矢報いてみるのだが、今日ばかりはどうにも言いよう がない。確かに目の前には自分の好物ばかりが並んでいたし、正直言って十五年間この味 に慣れた舌は、母親の味が一番好きなのだ。まだ、言ったことはないけれど。  そして、今日からその母親の味を味わう、十六年目に突入する。 「……いただきます」 「あーっ、お兄ちゃん、それはないんじゃない?」 「そうだよ、いただきます、の前に何か言うことあるでしょ?」 「んっ? ――あ」  花井は、一旦手に取った箸をぱちんと置いた。そうして、椅子に座りなおすと、母親と 妹二人へ向き直り、 「ありがとーございます」  上手く笑えたかは判らないが、しっかりそう告げた。 「そうだよねー」 「全く、お兄ちゃんはどこか抜けてるんだから」 「……お前らな」  女の子の成長は男のそれより早いからか、このごろますます口達者になってきた。それ を嬉しく思う反面、いつか口で勝てなくなる日もそう遠い話ではないような気がして、少 しそれには寂しさも感じる。  どうしても、祖母と母親と妹二人に対して花井と父親だけで対抗するのには無理があっ て、いつも押されぎみなのはこの際横に置いておくとして。 「ところで、もう二人とも風呂には入ったんだろ?」 「うん」 「だったら、もう今日は寝とけよ。俺を祝ってくれたのは嬉しいけど、」  夕飯は通常通り七時ごろに済ませていて、今は花井に付き合ってお茶を飲んでいた二人 にそう声をかけると、目の前に座っていた母親が椅子から立ち上がった。 「そうねー。お兄ちゃんを祝う目的はもう終わったし。今日は寝ようか」  笑顔とともに告げられた最終宣告に、 「えー? まだ大丈夫だよ!」 「そうだよー!」  と、二人して粘ってみるものの、その結果は火を見るより明らかである。それでも抵抗 せずにはいられないらしい。この時期の少年少女は皆そんなものなのだ。まだぶつぶつ文 句を言っていたけれど、一応おとなしく母親に連れられて部屋へと上がっていった。  花井は一人、食卓に取り残される。二階の方で騒いでいる女の人々の声が、一枚薄い膜 を通ってきているかのようにうっすらぼやけて聞こえた。 「……梓? あーずーさー」 「――うわ!? 親父?」  突然手の平が目の前に迫ってきたかと思うと、ひらひらと上下に揺れる。がたっ、と椅 子ごと体を引くと、仕事から帰ってきた父親がネクタイを緩めていた。 「大分疲れてるみたいだなー。野球部の練習大変か?」 「ああ、まあ。でも楽しくやってる」 「そうか」  少し眠気が来て、一瞬意識がどこかへ飛んでいたらしい。自分で自覚しているより、よ ほど疲れているようだ。まだ残っているちょっとだけ豪華な食事を、急いで口の中へほお ばった。 「あら、お帰りなさい」  二階から、双子を寝かしつけて、母親が下りてきた。父親の姿を見つけて、すぐさま湯 飲みを一つ取り出し、日本茶を淹れる。その間に、花井は食べ終わった食器を流しへ運ん だ。自分のものは自分で片付ける、が花井家のルールである。 「ああ、ただいま。お、そうだ、梓」 「ん?」 「今日、お前誕生日だろう。コンビニので悪いけど、これ父さんからのプレゼントだ」 「あらまあ、よく覚えてたわねー! んじゃあ紅茶でも淹れようかしら」  ティーバッグだけどさ、と母親は苦笑いだ。けれど、コンビニの袋に入った三百九十円 の切り売りケーキは、どんな高級店の限定品より美味しそうに見えた。きっと、それに合 わせて淹れられた紅茶なら、たとえティーバッグであろうとなんであろうと、美味しいに 決まっている。 「ありがと、親父」 「いやー、それがな、朝に言ってやろうと思ったんだが、なんせ梓の朝が早くて」  思わず、花井は母親と顔を見合わせる。そして、どちらからともなく噴き出した。 「ん? どうしたんだ」 「いや、飛鳥たちと言ってることが同じなもんだから、つい……。ねぇ、梓?」  花井は頷きながら、コンビニのケーキにフォークを差し入れる。思いの外柔らかいスポ ンジに、それはさっくりと入っていった。  可愛い妹二人と、父親と、口うるさいけれど優しい母親。  明日も練習だけれど、今日だけはこんな晩餐とティータイムも悪くない。 ※ちなみにお祖母さんはもう寝ちゃってます。早寝早起きです。あ、出掛けの花井に会っ てるのかも。