祝われて、判ったことがある。  そして、あの日にあの人がしようとしたことも。  まだ春休み。されど、明日は入学式。そんな、春の日が誕生日だ。四月六日。桜は、お おかた散り始めか、または散り終わっている。雨と晴れが交互に過ぎ去って、気づくと桜 には鮮やかな葉が芽吹いているのだ。  もう誕生日を言い触らすようなことはしないし、新しい環境で会う人達に祝ってもらい たいとも思わないから、別に不満はなかった。  小さい頃は、だいたいクラスメイトと仲良くなり始めるのは四月の終わりで、誕生日を 訊かれれば「なんだ、もう過ぎちゃってるね」と残念がられるものの、「んじゃ、来年は 祝うからさ」という口約束は果たされることもなく。それを寂しいとも残念だとも思って いたはずなのだが、いつしかそれすら感じなくなった。仕方のないことなのだろう。  それより、高校の入学前に出された英語と数学の課題と、その範囲から出題されるらし いテストの方に気が向いていた。  だから、こんな提案をされても、正直どうでもよかった。  珍しく、母親がこんな提案をしてきたのだ。 「尚治、今日誕生日でしょう? 何か食べたいものとか、」  それが、今日が自分の誕生日を祝おうとしているのだと判っていた。けれど。 「いいよ別に。普通で」  今更、めでたくもない。 けれど、三橋の家で勉強会を開いたとき。  どう考えても便乗してしまった――いや、便乗させられたといったほうが正確かもしれ ないが、とにかく三橋のついでであったことは明らかだったのに、ハッピーバースデーを 歌われて、おめでとうを言われて、やはり感じたのは嬉しさだった。  この世に生を受けたことを、何年経とうとも、変わらずにめでたいと祝う。そんな、当 たり前の奇跡の記念を、どうして自分はあの日、今更だなんて思ったんだろう。  全力で照れる花井を、こちらも全力で祝いながら、蝋燭のほの暗さとみんなの大合唱の 中で、巣山は一ヶ月以上前のあの日を思い出していた。 自転車で夜風を切る。三橋の九分割コントロールを目の当たりにして、体の芯が跳ねた のも、数時間前のことだ。本当に、田島も阿部も三橋も。元より、あの球場の土を踏もう と努力しているが、いよいよ頑張ろうという気合を入れられた気分だ。  もう春の空気は初夏の勢いに呑まれて、名残も見当たらない。初夏、というより、五月 も半ばになれば、もういっそ夏だと言ってしまっても過言ではないだろう。そう、あの日 の空気は、いつの間にか過去のものになっていた。  今思い出そうとしても、結局あの後どうなったかがまるで判らない。  自分の好物が出たのだろうか。おめでとうは言われたのか。言われたとして、自分は何 と返事をしたのか。  それでも慣れというのは怖いもので、気付くと自宅の明かりが巣山を出迎えていた。  この中で、今日もあの人は、自分のために夕飯を作って、風呂を沸かして、日が出てい る内に寝心地がいいように布団を干してくれているのだ。  今更めでたくない、とか。思春期真っ只中だなんて思いたくなんか絶対ないけど、少し 恥ずかしかったことも認めよう。けれど、そういう感情を例え抱いたとしても、あの日の 自分はそれをいつものように流してはいけなかったのだ。  今になって気付いた自分が悔しい。  門の前で、自転車のハンドルを握り締めたまま、足に根が生えたように動けなくなった。 「……尚治?」  と、やおら玄関が開く。中から上半身を覗かせたのは、まさに巣山が今の今まで思って いた人だった。 「あ……」 「良かった。いつもより帰りが遅いから、どうしたのかと思ったわ」  ふいに、どうしてだか泣きたくなった。返事をしようと思うのに、上手く息さえ吸えな くなって、ごまかすために自転車を仕舞いに行く。けれど、巣山が返事を返さないのはい つものことなので、別段気にされた様子もない。それが無性に悲しい。  家に入ると、洗濯物を出しておくように言われた。洗面所へ入ると、昨日と全く変わら ず、沸きたての風呂が自分を待っていた。  もう、ただ黙っているなんて出来ない。 「あのさ、」 「んー?」  台所で夕飯を温めなおす、細くて小さい背中に、声を投げる。けれど、そこからどう話 したらいいのか判らない。思えば、まともに面と向かって話すのだって、いつぶりのこと だろうか。 「……誕生日のとき、ごめん」  一ヶ月以上前のことをいきなり切り出して、きっと変に思われているに違いない。でも 、これよりマシな言い方を思い付かなかった。  試合の応援だって嫌がって、家でもまともに取り合おうとしない息子に、それでも声を かけてくれた。誕生日、年に一回の大切な日に、好きなものを食べさせてあげたいという のは、母親の願いであったはずなのに。 「え? 誕生日って、尚治の?」 「そう」 「やだわ、何を謝るのよ。私こそ、ちゃんとしたプレゼントも用意できなくて……結局料 理にしちゃったのに」  そう言いながら、食卓に箸と茶碗を並べていく。何年間も、巣山が生きてきたより長く 、その作業をやり続けている人の滑らかさだった。 「私こそ、ごめんね。尚治」  まるで引き寄せられるように、巣山は食卓に着いた。  そして、時々挿まれる母親の相槌に助けられながら、今日あったこと、思ったことを、 この数年なかったほどたくさん、巣山は母親に告げたのだった。  ご飯を食べながらだったので、時々料理の感想も混ぜると、彼女は本当に嬉しそうに、 優しく微笑んで、巣山を見つめる。……いつの間に、こんなに彼女は小さくなったのだろ う。いや、巣山の背丈が伸びたのだということは判っている。けれど、それだけではない 何かが、自分がただ反抗し続けてきた数年間に変わってしまったように思うのだ。それは 、彼女が変わったのか、自分が変わったのか。 「そう、そんなことがあったのね」  食後の日本茶を、巣山と自分に出す分と、二つの湯飲みに注いで、彼女は呟いた。一口 飲むと、湯気の向こうに母親が見える。 「でも、その日に私が作った料理を、何にも言わなかったけど、尚治はちゃんと食べてく れたわよ。確かに、私があなたを祝いたいという気持ちを汲んでくれないのは寂しいこと だけれど、それより、尚治が何か体の調子が悪かったり、何か他の原因があって、私の料 理も食べられなくなるほうがよっぽど寂しいわ」  だから、結局私は嬉しかったのよ。 「尚治が、健康で、私の料理を食べてくれて、毎日野球を頑張ってるのを見れれば。私も 、頑張ってあなたを生んだ甲斐もあるってものよね」  最後は少し笑いながら、彼女はそう言って、洗い物のためにまた台所へ立つ。その洗い 物だって、今しがた自分が平らげた後の食器なのだ。 「あ、……ありがと、う」  なにやら、三橋のようにつっかえてしまった。  けれど、今一番言わなければいけない言葉のはずだった。こういう選択は、どんなに恥 ずかしくても、間違えたくない。 「どういたしまして」  わざわざ水道の水を止めて、彼女は振り返ってそう言った。  と、その静寂もつかの間。 「――あらやだ、もうこんな時間? 尚治、早くお風呂入ったほうがいいわよ。明日も朝 練あるんでしょう」  元来の彼女に一瞬で戻って、巣山を次の日常へと追い立てたのだった。  湯船に浸かって、考える。  来年の自分の誕生日には、きちんと食べたいものをリクエストしよう。  そうだ、それから、母さんの誕生日には、兄弟でなにかをプレゼントするのもいいかも しれない。  それから、イライラしていても、うっかり怒鳴ってしまわないように気をつけよう。ど ちらかというと気の強いほうではないので、つい大きな声で反抗してしまうと、びくびく してしまう人だから。  反抗期はまだ抜け出すには時間が掛かるだろうけれど、球場で声をかけられるのはやは り恥ずかしいけれど。  今は、ただ悲しませたり寂しがらせたりしないように、しっかり自分のすべきことを頑 張ろう。  巣山は、明日も彼女の朝ご飯を食べるためにも早く寝なければ、と勢いをつけて湯船を 後にした。