大丈夫だろうと思っていたし、実際そこまで支障はなかった。ただ、あくまでそれは野 球をやる上での話ではあるけれど。  だから、主将ならまだしも、まさか、あのどこかの投手にやたら過保護な彼が、自分に までその矛先の欠片を向けるだなんて、全く予想だにしていなかった。 「水谷」  まず、名前を呼ばれたことに驚いた。  水谷自身、そんなそぶりはしなかったつもりなのに、途端に彼の不機嫌が倍増する。 「ごめんごめん。どしたの、阿部」  不機嫌が倍増。つまり、話し掛けて来た瞬間から、このキャッチャーは「機嫌? んな もんいい訳ないだろうが」オーラを撒き散らしている。実際、阿部と水谷で、サシの会話 をした結果、阿部が不機嫌にならなかった日はあまりない。けれど、少なくとも話し掛け た段階で不機嫌モードというのも珍しくはある。しかも、水谷から話し掛けたならまだ話 は判るが、今日は阿部からだ。  人に話を聞いて欲しいなら、それ相応の態度がある筈なのに、もうこの阿部という人間 については、これがデフォルトになってしまっている。  このままだと社会には出づらいな、と無意識の内にそう思って、水谷は次の阿部の言葉 を待った。 「どうした、はお前だ。左手、気付かれないとでも思ったのか?」 「……うわあ、俺、今、阿部に心配されてるの?」 「その言い方もどうだよ……。けど、俺もちょっと気にはなったな。なんか靭帯痛めたん じゃ、」 「わ、花井まで! そんな大袈裟な」  今日のフライキャッチ練習のとき、取った球をすぐに田島まで投げれなかっただろう、 どうしてだ、と二人掛かりで詰め寄られた。  花井は、今日の守備位置がセンターでレフトとは隣のポジションだし、阿部は田島から 戻って来るであろう球を待ち受けていた。気付くのは当然と言える。恐らく田島も気づい ていることだろう。 「くだらない理由なのにー。言ったら絶対怒られるしさ」 「安心しろ、もう既に怒ってっから」  それ安心できなくない? と心中突っ込みながら、それでも水谷は見てしまった。  阿部と花井、合わせて4つの眼が発する、じっ、と咎めるような視線の中に、滲んだ憂 いの色。  正直、あまり自分から言いたくはないけれど、水谷は腹を括った。これだけ心配された なら、それにはきちんと応えなければ。 「あのね、昨日きよえさんが用事でさ、」 「誰、きよえさんって」 「あー……母親。詳しくはまたいつかね。で、夜遅くなるっていうからさ」  普段の10時に帰るような日なら、コンビニで何か適当なものを食べたのだが、昨日は たまたま週一回のミーティング日だった。だから、料理でもしようか、という心境になっ たのである。 「んで、野菜切ってるときにちょっとね。もう塞がってるし、これ以上悪くなることない から」  グローブを嵌めていても、キャッチしたときの衝撃で痛みがビリィッと走った。そして 、送球が遅れた、ということだ。  絆創膏すら貼っていない、左の人差し指を二人の目の前で振った。 「あ、あのーぉ?」  不自然な沈黙の意味は判っている。でも、判っていることと、それをぶつけられること とはまた意味が違うのだ。違う、のだれど。 「ふっざけんな! そんな理由でもし今日が試合だったらどうするんだ、一瞬バックホー ム遅れて、点入る事もあるんだぞ!」  やはりぶつけられた。  けれど、試合に響く、と水谷を選手として扱った発言をしつつ、その本心は水谷個人の 事を気に掛けているのだから、この捕手はまったく素直ではない。 「理由は判った。そりゃ仕方ないよな。……けど、俺らに心配かけたことについて何か言 うことは?」  掛けた言葉の、主将として、部員に向ける言葉が前半。そして、後半は、主将としてで はなくて、一緒に野球をやっているチームの人間へ向ける言葉だった。 「ごめん、なさい?」 「何で疑問系なんだよ!」 「阿部、そのへんでやめとけ。つか、水谷、他に言い様あるだろ? 俺はそっちを期待し たんだけどなー。なァ、」 「あ? 俺は別にごめんでいいと思ってるけど。ってか、語尾上げたのが気にくわねぇ!」 「ゴメンナサイ」 「今カタカナで発音しただろ」  そんなに拘わられても。それに、ここまで一方的に責められては、水谷の方にだって鬱 屈が溜まっていく。  そうだ、どうせなら暴露してしまおうか。 「じゃあ言わせてもらうけど!」  こちらだって、同じだけ皆を心配しているのだということを。 「阿部、毎日データ整理してるのは知ってるし、感謝もしてるよ? けど、ちゃんと睡眠 時間確保しないのは感心しない! 今日寝不足でしょ、朝ちょっと調子悪そうだったし、 さっきの時間も船漕いでたもん。それから、花井も。左手首どうしたの? バッティング 練習で痛めたのかなー、ってのが俺の予想だけど、どっちにしても大事にしてよ!」  一気に言い切った水谷を、二人ともが何か異邦人を見るような目つきで見つめた。  確かに、今水谷が言ったことは的を得ている。けれど、そんな、気付かれていてなおか つ。 「もー、心配してるんだからねっ!」  心配されていたとは。  思わず花井は阿部を伺う。すると、向こうも同じような目線を向けてきていた。 「えー……と、お前、俺の手首とか、気付いて……た?」 「おう。けど、花井ならやばかったら言うだろうし」  西浦高校野球部の面々は、何か不調があった場合、人数が少ないせいですぐに全体に響 くことにもなりかねないので、自主的に百枝なり志賀に報告することにしている。  規範となるべき主将である彼が言わないということは、まだそんな大事ではないのだ、 と阿部は思っていた。水谷もそう考えて、今まで言わなかったのだろう。 「それより、俺が寝不足だっていうのは?」 「見りゃ判るだろ? それくらい」 「っていうか、皆知ってると思うよー。ただ、俺の切り傷までばれてるとは思わなかった けど」 「「ばれるもなにもねーよ」」  つまり、お互いのことを気にかけ、心配しつつも、ちゃんと自己判断で申告するだろう と信頼している、ということだ。 「あ。ねー、俺も心配してたんだけど。お二人さん、俺に言うことは?」  あー……、と左上と右下へそれぞれ視線を逸らしたあと、 「悪い」 「ありがとう」  返事は二つに分かれた。 「ん? あーそっか、「ありがとう」かぁ」 「そういう言い方もあるんだな」 「え? 俺んちではこれが普通なんだけど……」  心配されたら、「ごめん」ではなくて「ありがとう」を。  つくづく、家族仲が良いというか、しっかりした躾をされたというか。花井の育ちのよ さが垣間見えた。 「変、かな」  今度は水谷と阿部が顔を見合わせる番だった。 「いーや。何も変じゃねえよ」 「うん、すっごく素敵。いい家族だねぇ」  真っ赤になって、例の如く怒る花井のことなんか知らない。  しかし。  チャイムが鳴って、席に着いた彼らは、もう一人のことを失念していた。 「花井くん! ちょっといい?」 「はい、何すか? ……っ痛だだだ!」 「うん、どうやらホントみたいね、左手首痛めてるの」 「なッ、なんでそのこと!? つかいきなり握るなんて……!」 「拒否権はないわよー。あんたたち、今日教室で話してたんでしょ? どこを痛めただの 何だの」 「いや、だから誰が、」 「ん? 千代ちゃんだけど」 「……!!」 「という訳で、阿部くんと水谷くんを呼んで来て?」  あとで恨みがましく「何で言っちゃうの」と嘆いたら、「それが私の心配の仕方だもん 。ちゃんと怒られてくれて良かった。もう隠さないでね」と言った敏腕マネージャーに、 3人揃って「ありがとう」を言った。