「あの、どうして今日はフランシスさん来ないんですか?」 「……お前、去年から配属されてたよな? 毎年この日はいらっしゃらないよ。去年もそ うだっただろ」 「は? といいますと」 「あー、と、お前はカトリックか?」 「はい」 「……聖女と言えば?」 「聖女、ですか? ……すぐに思い浮かぶのはジャンヌ・ダルクですけど――あ、」 「……あの人は、本当に生きていたその人に会ったことがおありなんだよ。……で? 何 か急ぎの書類でもあったのか?」 「……いえ」 「なら、仕事に戻りなさい。……俺もここに勤めて三十年になるけれど、毎年この時期は フランシスさんのお顔を見るのに慣れないんだから」 「……私、何も知らないで、……確かにここ数日は遠くをご覧になってることが多いなと は思ってましたけど、でもただ体調がお悪いものと、」 「だから、そうやってお前が辛く思うから仕事をして紛らわせろ、と言ったんだ。……残 念ながら、我々に出来ることはそれだけだ」 「はい。……え、あの、SPも何もお連れにならないでお出かけに?」 「さあ? そうなんじゃないか?」 「ええ!? 仮にも一国なのに、」 「おいおい、あの人をどなたか判っていてその発言か? お強いから大丈夫だよ」 「え?」 「今まで幾つの戦いを乗り越えられてきたと思ってるんだ」 「あ、……そうでした」 「まあ、もちろん誰かは勝手に付いていってるだろうよ、気づかれないように。……無駄 だろうけどな」 「ですね。フランシスさん、人の視線とか態度とか、すぐお気づきになるんですから」 「それも国ゆえ、だろうなぁ。見かけは人だから、まだ少し戸惑うだろうが、……でも、 我らが祖国は素敵な方だからな」 「はい! それはもう!」  ルーアンの中心部にあって、なおかつセーヌ川を跨いでいる橋は幾つかあるのだが、フ ランシスが訪れる橋の名はもちろん毎年決まっている。  Pont Jeanne d'Arc。  行きかう町の人々と時折話をしながら、フランシスはずっとその橋の隅に立っていた。 いや、時々は寄り掛かりもしたし、座りもしたが。  毎年毎年出かけるのもなんだか習い性になるのではないかと何百年か前は危惧していた ものだが、まったく馬鹿らしい悩みだった。習慣になるくらい、自分があの子を好きだと いうだけの話なのに。  隣り合うスイスやドイツほど緯度の高い土地ではないから、今日のように蒼天だと少々 暑いだろうな、と覚悟はしてきていたのだが、流石に川の畔で常に風が吹いている。靡く 黄金色の髪を幾度となく手で押さえつけて、ああ、今日シャワーを浴びるときは丁寧に絡 まった髪を解かなければ、などと考えた。 「……」  ああ、自分はまだ生きているのだ、と思う。髪のことを気にし、先ほどから五メートル くらい離れたところで自分を見ている女の子の視線を無視し、朝見かけたご婦人がまた反 対の方向へ橋を渡っていくのを見送り。  生きている。生きている。  もちろん、死ぬわけにはいかない。それは、昼にパニーニを売りにきた行商のおじさん や、ゆっくり景色を見ながら渡って行った老紳士の生死にも関わってくる話だからだ。い や、それにとどまらず、GDP五位だったり六位だったりする(07年推計)実力を考え れば、自分一人がいなくなるだけで世界にどれだけの損傷を与えるかは計り知れない。第 一、共にEUを引っ張ってきたルートヴィッヒに壮絶に怒られること間違いなしだ。面倒 なときに死ぬな、なんて言って。表情も声も容易に想像がつく。  そもそも、試しにここで入水自殺をしてみたとしても、一国がそう簡単に死ぬわけがな い。というか、単に水浴びで終わってしまう。いや、去年から続くどこかの超大国のおか げで治らない体調のこともあるし、もっと酷く体調を崩すことくらいは出来るかもしれな いが。しかし、個人の感情で国民に迷惑をかけるわけにはいかないのだ。 「……さて、」  日が斜め四十五度ほどに傾いて、ようやくフランシスは気が済んだのか立ち上がった。  これもまた毎年のことになってしまったが、これから向かうところがある。 「Merci」  ずっと前に使っていたフランス語はなんなく使える。  街角の花屋で毎年のようにアイリスを買って、海を渡らないと使わないユーロを払う。 気の良いおばさんが一本おまけしてくれた、真紅の薔薇をそのアイリスの中に埋もれさせ て、セーヌ川の方へ足を向けた。  学生街として知られるルーアンは、本が詰まっているであろうナップザックやトートバ ッグを背負った若者で溢れている。そうだな、自分の国で言うならオックスフォード?  いや、そこまではいかないけれど。  川の水の流れは穏やかだ。まるで……今日これから会ってしまうであろうアイツみたい に。  例えば川の短い国はそれが気性にも表れているんじゃないか、と思ったことがある。以 前強固な同盟を結んだ日本の川は短く急流なことで有名だ。WW2の時に垣間見たあの国 の矜持は、少しその川の流れになぞらえられるような気がしている。  いつの世も戦争ばかりしているな、と自嘲の笑みが口の端に上るけれど、あいにくその 手の応酬はやり取りし慣れていて、今更傷ついたりしない。  と、セーヌの川岸で花束片手にぼうっと座っていたら、舗装された道を叩く革靴の音が 近づいてきた。ああ、毎年のことだ。 「Bonjour」 「……Good afternoon」  お互い自国語しか喋らない出会いなんていつものことで、大抵は、気分でどちらかがど ちらかの言葉に合わせる。幾ら文化的に犬猿の仲であっても、喋れる以上、意思の疎通を するのにわざわざ別の言語を話す必要はない。  だが、そのまま自分の言葉しか話さないこともままある。それでも、二人ともどちらの 言語も話せるせいで、問題にならず会話が進んでしまう。一度とならず何度でも、どの時 代でも、お互いの上司や部下に気味悪がられたり引かれたりしたっけ。けれど、これが二 人の当たり前なのだ。 「体調は平気?」  フランシスがフランス語で話しかける。どちらにしろ、今日はフランス語を話すべきだ と判っていたので、アーサーは脳内の言語体制をそちらに切り替えた。 「お前こそ。知らねえぞ、長時間川の風に吹かれたりして」 「……うん。でも心配ご無用、お兄さんそこら辺は丈夫に出来てるから」  嘘つけ、と一笑に伏して、アーサーも視線をセーヌ川へ向ける。一瞬みたフランシスの 横顔は見れば判る程度に青褪めていた。知っている、お前が近頃をどんな風に過ごしてい たかなんて。もっとも、勿論一番酷かった六百年ほど前は今の比ではなかったが。  とうとうお互いに誤魔化しきれなくなって、世間一般で言うお付き合いを始めたのはい いが、二人が二人に色々やってきた歴史は消えないどころか今現在も進行形なわけで、だ から年がら年中何がしかの記念日だったり勝戦日だったり、ということは裏を返せば相手 にとっては敗戦日だったり、とにかくどういう顔で過ごせばいいのか判らない日というも のが大量に発生した。  その極めつけが、今日だと思う。 「俺はもう満足したから、アーサーは好きなようにすればいいよ。今年はちょっと早くお 前を見つけすぎたみたいだし。今着いたばかりだろ?」 「どうして」 「どうして、って。着いたらすぐに花屋に行って、それから流すでしょ。まだ手元にある じゃない、花束」  ああ、それもそうだ、と納得する。少し今年はぼうっとしすぎた。  手に花束を引きよせて、包み紙をそっとはがす。根元を括っていた紐を解いて、一本一 本ばらすと、中から一輪の薔薇が出てきた。 「ん? なに、それ」  真紅のたった一輪でも強烈に咲き誇る薔薇を目に留めて、フランシスが不思議そうな声 を上げた。普通、一輪だけ買ったなら、それ一輪だけで包んでもらうものだが、なぜかア イリスの中に埋もれていたので。 「ああ、なんかサービス、ってくれた。……一緒には流せねえから、持っててくれ」 「……んー、」  解いたアイリスを片手で抱えて、一輪だけの棘を持つその花を差し出すと、 「……アーサーさえよければ、一緒に流して」  控え目に微笑みながら、その手を押し戻された。  その瞬間、ざあ、と一際強い風が自分の頬を撫でていく感触だけがやけにリアルで、お かげで意識もしたくなかった目の端を妙に冷たくなぞられた。 「え、だって、それ」 「うん、アーサーの花だけど。……あの子を逝かせたくなかったのはお前も一緒だろ」 「……っ、だけど!」  実際に手に掛けたのは自軍だ。それに、当時彼女に完全に恨みがなかったと言えば嘘に なる。結果として、大陸のたった一つの足がかりを失うことになったのだ。だから、弔い にはあの子の愛した国の花を流しているのに、ここで、自分の花など流しては。 「第一、政権の中で孤立していったあの子をどうしようもできなかったのは俺なんだし、 ね」 「……そうだとしても、……っ」  そんな顔で微笑うなよ! と叫びたくなったけれど、どうにかその衝動を押し殺して、 アーサーは足先を川へ向けた。 「っ、俺の手からは流せない。お前の好きにしろ」  そう言い放つと、アーサーの手は抱えたアイリスを静かに水面に浮かべて、すっと送り 出した。青と白のコントラストが夕日に輝く流れの中に飲み込まれていく。スラックスが 汚れるのも厭わず、両膝を地面に着くと、両の手をそっと合わせた。 「……」  フランシスはそれを横目で見つつ、手にした薔薇を紙飛行機の要領で川へと投げた。す ぐに見えなくなって、けれど、彼女は嫌がらないだろうな、という気がしていた。  風が先程一回強く吹いてから、不思議と凪いでいるから。  シャツの腕を捲って、右手を川へ浸した。掌に窪みを作って、水をすくい上げる。これ も、毎年恒例になってしまった。 「……」  その水をゆっくり口へ持っていって、静かに飲み下す。  アーサーはそれを止めず、聞いてくれる人のいない懺悔を脳内で繰り返す。  フランシスは、何も言わなかった。 「で、アーサーは日帰り?」 「ああ。平日だぞ、明日。お前も早くパリ戻れよ」 「……まあ、夕飯は食べていこうよ」 「この時間だとアフタヌーンティーになるんじゃねぇの」 「ハイティーじゃなくて?」 「あれはもう夕飯みたいなもんだからな……」 「じゃあ尚更、どこかお店みつけて、ハイティーにしない? ワイン飲みたい。お前と」 「……。ボルドーの良い奴なら」 「ボルドー、ね」 「あ、」 「いいよ、美味しいものに罪はない、でしょ?」 「……ああ」 ※なんだかもう色々申し訳ない。  ・ ジャンヌ・ダルク逝去=5月30日(現行暦で6月8日)  ・ ルーアン=フランスの一都市。ここで火刑に処される。  ・ Pont Jeanne d'Arc=ジャンヌ・ダルク橋。実在。(見つけたときは叫んだ)  ・ セーヌ川=彼女の遺灰が流された。(フランシスが川の水を飲んでいるのはこのた め。彼女の体は水と共に世界を巡ってるわけです)  ・ ボルドー=フランス有数のワインの産地。三百年間くらいイギリス領だった。  あ、パニーニはイタリアの料理ですよ。  改編とかするかもしれませんが、一応これで。→改編しました(06/15)  あの子のご冥福を心よりお祈り申し上げます。  (作業用BGM=sm7182813・sm7029162)